「ぎゃっ!」
ひしゃげた悲鳴が、小鬼の口から漏れた。吹き上げる血が、霧に代わって辺りを染める。どさりと鈍い音がして、二本の腕が地に落ちる。鋭い爪に、艶やかな緑の葉が絡む。
ニコルは恐る恐る、顔を上げた。すぐ目の前に立つ影に向かって、震える声を出す。
「キャンディ……」
「大丈夫か、ニコル」
剣を構え、前を見据えたままキャンディは言った。その声に、体の緊張が少し緩む。ニコルは細い声で、もう一つの影に向かって囁いた。
「カイ……」
「ああ、もう心配ねえ。おい、てめえらも大丈夫か?」
「あ、ああ」
「こっちも無事や」
すぐ後ろで聞こえた声に、ニコルが振り返る。
「クロノス、ルウ……」
「こういう時は、剣の方が早うてええな」
黄金の杖を左手に持ちかえながら、ルウが近付く。
「魔法は時間がかかってあかん。特にこういう精神系の攻撃を受けた後は、気が乱れてしもうて、なかなか魔法が組めん。でも」
ルウはニコルの側に立ち、止まった。濡れた目で見上げるニコルに、にっこりと微笑みを返す。黄金の杖が、淡く光る。
「もう、大丈夫や」
「……あっ」
ニコルは喉の奥で小さく叫ぶと、草むらの先に視線を転じた。蹲り、低い唸り声を上げている小鬼。先のない両腕を抱え、苦痛に顔を歪めている。その顔が、ルウの持つ杖の輝きに照らされる。
ニコルの顔が、強張る。その前で、カイが叫ぶ。
「悪いがな、ルウ」
カノートをぐるりと回す。
「こいつのとどめは、俺がさす!」
「――待って!」
「とっ」
完全に前へ移した重心を無理に引きとめ、カイは体勢を崩した。左膝をつき、軽く舌打ちをしてから、悲鳴の主を振り返る。
「なんだよ、ニコル」
「殺さ……ないで」
「お、おい」
「お願い……殺さないで……」
「でも、こいつは――」
「とゆうか」
黄金の杖にしがみつきながら、涙目でカイを見つめるニコルに、ルウが困惑した声を出した。
「ちょっと離れてくれへんやろか。これでは魔法がかけられん」
「で……でも……」
「早う、その傷、直さなあかんのに」
「き……傷?」
青と金の目から、ぽたりと涙を一滴零して、ニコルが言った。
「だったら」
草むらを見る。
「先に……彼を」
「バカ言うな」
呆れるのを通り越し、怒りを込めてカイが怒鳴る。
「そんなことしてみろ。直った腕で、すぐにあいつはお前を引き裂くぞ」
「そやで」
黄金の杖が、優しい光でニコルの両手を包む。
「情けをかける相手は、よう選ばなあかん。それに、闇雲に許すだけが、情けとは違うよって」
傷の癒えた滑らかなニコルの手を見て、ルウは満足げに頷いた。
「よっしゃ。じゃあ、後は」
再び、杖が強く輝く。小鬼に向かって、それを翳す。
「……ルウ……」
「分かっとる。あんたが泣くようなことは、せえへんから」
杖から放たれた光が、帯となって空を飛んだ。小鬼の頭上で、とぐろを巻く。そのままゆっくりと、下に降りる。
冠のように、光の帯は小鬼の頭を飾った。煌きながら、それが緩やかに沈んでいく。頭の中に、吸い込まれていく。
「一体……何をしたんだ?」
カイの呟きに、ルウが答える。
「今回のような悪さをせんよう、あいつの気を封じた。もう、他者の心に土足で忍び込むような真似は……できへん」
ルウの目がそこで翳り、クロノスが俯いた。カイの眉間に小さな皺が寄り、キャンディの口元がきつく結ばれる。誰の顔にも、少なからずの苦悩の色が、そこで滲む。
ニコルがぽつりと言った。
「でも――でも、怪我は?」
「その心配はない」
抜いた剣を鞘に納めながら、キャンディが言った。
「こいつの体はトカゲみたいなもんだからな。この程度なら、十日とかからず再生する。それまでは少し不自由だろうが、これだけ豊かな森だ。生きるに困ることはない」
「おい、キャンディ。逃がすのか?」
まだ剣を構えたまま、カイが唸る。
「こいつを、このまま」
「今はな」
低くキャンディが答える。
「だが、もしまた刃を向けてくるようなことがあれば、容赦はしない。もっとも、そんな機会は二度とないだろうが。この森を訪れることなど、もう二度と――」
「ありがとう」
純な響きが、キャンディの背を打った。
「助けてくれて、ありがとう。みんなも、ありがとう」
銀の髪を揺らし、ぺこりとニコルが頭を下げる。再び上げた顔に施された笑顔に、救われる。真っ直ぐな気持ちだけをそこに見出し、頑な何かが少しだけ溶ける。
ルウの目が、明るい艶を見せる。クロノスの顔が、木漏れ日を受ける。キャンディの唇がなだらかに弧を描く横で、カイがぶんとカノートを鳴らし、それを背に納めた。
「そうと決まれば、とっとと行こうぜ」
張りのある声が響く。
「こんな忌々しい森とは、おさらばだ」