何でも屋キャンディのお仕事ファイル                  
 
  第四章 喪失の森  
             
 
 

 

 ニコルは、ぎゅっと右手で自分の胸元をつかんだ。そこにある、ブルー・スターを握り締める。濃い霧に向かって、声を出す。
 キャンディ……カイ……。
 だが、喉は掠れて音を出さない。ごくりと唾を呑み込み、ニコルはもう一度叫んだ。
「キャン――」
 みなまで言うことができず、ニコルはその場に蹲った。がたがたと震える。息が苦しくなる。言い知れぬ恐怖に押し潰されそうになる。
 ニコルは霧を見据えた。閉ざされた視界。揺らめく深い闇。何かがそこに潜んでいるように思え、不安になる。だが、それよりも恐怖を感じるのは、そこに何もないことだ。自分だけが取り残された、その方が、遥かに恐ろしい。
 でも……。
 ニコルは震える体を、両腕で抱え込んだ。
 今、迫り来る恐怖は、それではない。あるのは、あるのは……。
「痛っ!」
 ニコルは、小さな悲鳴を上げた。肩にある、貫くような痛みを掌で押さえる。その手が、みるみる赤く汚れる。指の隙間から滲み出た、真紅の雫に染められる。
「――あっ」
 痛みが全身に走る。苦痛に反りかえる体を、無理からに丸める。意識が遠のく。だが、すぐにそれを呼び戻さんと、新たな衝撃が加えられる。
 涙が滲む。苦しいとか、悲しいとか、そんな感覚はもうない。痛みすらも、もう感じない。ただ、体が悲鳴を上げる。血と涙を流し続ける。
 どうして……。
 心にあるのは、その思いだけ。
 どうして……。
「――どうして?」
 闇の中に響く声。自分のものではない。ニコルはその音に、微かな意識を向けた。
 小さな形が見える。子供のようだが、鉛色の体は皺だらけだ。ぎょろりと大きな目を剥き、こちらを見つめている。頭には、土色の角が一本。
 小鬼……?
 ニコルの脳裏に、そんな言葉が浮かぶ。
 不思議な感覚だった。かつてそこは、ただの暗い海だった。だが今は、水面を覆い尽くさんばかりに、様々なものが漂っている。失った過去が、浮かんでいる。
 しかしそれらは、どれもこれもばらばらで、形を為さない。繋げようにも、どうすればいいのか分からない。意識の表層に浮かんでは消え、消えては浮かぶのを、ただ虚ろに眺める。
「どうしてさ」
 小鬼の言葉に、記憶の海が波立つ。
「なんで、何もしないのさ。こんなにひどい目に、あっているのに」
 断片が、結びつく。
 石牢の中に横たわる自分。傍らには、大柄な男と痩せた背の高い、緋色の衣を纏った男。そしてもう一つ、牢の外に座する影。石牢よりも褪せた色の肌をした、石牢よりも暗く濁った目をした者。この場に似合わぬ煌びやかな衣装を身につけ、金色の冠を頂く男。
 その男の頭が、小さく揺れた。
 絶叫が、横たわる自分の口から漏れる。弱りきった体が、あまりの苦痛に捩れる。
 ニコルは耳を塞ぎ、目を閉じた。蘇った惨たらしい記憶に背を向ける。
「どうしてさ」
 心の内から聞こえるような小鬼の声に、ニコルは怯えた。その声に、むんずと体をつかまれ、縛られ、身動きができない。
「なんで逃げるのさ。やり返したらいいじゃないか」
 小鬼の声が、甘く囁く。
「君には、その力があるんだろ?」
「力……」
 ニコルは胸元に両手を当てた。そこにあるものを、確かめるかのように握る。
「そうだよ、それだよ」
 意識の中に滑り込んできた小鬼が、にたりと笑った。
「その力を使うんだ。ブルー・スターを」
「ブルー・スター……」
 呻くように、ニコルは呟いた。その声に、別の音が重なる。ざらりとした枯れた声。この牢の、この城の主。狂気に膿んだ目で、倒れ伏す自分を見ながら、うわ言のように繰り返す言葉。
「我によこせ。その石を……」
 ぎゅっと両手を、握り締める。
「我によこせ。ブルー・スターを……」
 手の中の石が、熱を帯びる。澄んだ青い輝きが、血に濡れたように色を澱ませる。
「我に、我に――」
 石牢の壁が、悲鳴で戦慄く。狂った声が、残虐に自分を責める。
 ニコルの頬に、涙が伝う。
「どうして……どうして、こんな……」
「そうだ!」
 小鬼の声が、小躍りする。
「こんなやつら、やっつけるんだ」
 ニコルの目から、また一つ、涙が零れる。
「どうして……みんな……」
「そうだ、そうだ!」
 小鬼の声が、甲高く鳴る。
「みんな敵だ! 恨め、憎め、全てを倒せ! やるんだ、やるんだよ。みんな、殺――」
「どうかもう――苦しまないで!」
 手の中の石が輝く。透明な青い光が、たちまちのうちに石牢を満たす。狂った男達に寄り添い、涙する。どこまでも優しく、包み込む。
「な、なんで……」
 小鬼は呻いた。そして叫ぶ。
「なんで殺さない? なんでこんな奴らを!」
「だって、泣いているから」
 雪の結晶を思わせる声で、ニコルが言った。
「僕を傷付けるたび、心が泣き、心が冷え、暗黒に囚われていく。僕が悲鳴を上げるたび、自分ではどうすることもできない、逃れることのできない、永劫の闇に呑まれていく。僕の――」
「ふざけるな!」
 小鬼は喚いた。
「傷付けられたらやり返す。やり返さなければ殺される。死んでもいいのか、お前は! 殺されても――」
「僕は……」
 ニコルの青い目が、急速に光を失う。堅く唇を結び、俯く。金色の目だけが、憂いを秘めて揺らめく。
 小鬼の顔が、大きく歪んだ。
「そうか、その石……」
 ぎょろりと剥いた目に、狂気の光が灯る。顔と同じ皺だらけの手が、ニコルに向かって伸びる。
「よこせ、その石を」
 ニコルは石を握り締め、首を横に振った。
「よこせ、その力を」
 小鬼の指が、ニコルの手を掠める。鋭い爪が皮膚を破り、肉を抉る。
 ニコルは流れる鮮血を、もう一方の手で押さえながら、その場に蹲った。ブルー・スターを守らんと胸に抱き、体を小さく屈める。
「それを俺に、よこせ!」
 狂った小鬼の声が、森を貫いた。霧が晴れる。くっきりと現実を映す世界の中で、小鬼の両腕が振り上がる。六本の鍵爪が、空を切り裂き、そのままニコルをも引き裂かんと降る。

 
 
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  第四章・6