一
笑い声がする。楽しそうな声。日曜日の午後は、必ずこれだ。
可愛らしい歓声を伴って、甘い匂いがキッチンから流れてくる。小鳥が囀るようなお喋り。その合間を縫って、カタカタという音が聞こえてくる。
もうそろそろだな――。
僕は、すでに読み終えた新聞を再び手に取った。
「パパ、パパ!」
予想通り、パタパタと音を立てて、舞花(まいか)がリビングに飛び込んできた。
「もうすぐだからね。もうちょっと、まっててね。しんぶんよんで、まっててね」
「ああ」
そう返事しながら、新聞越しに舞花を見る。僕はまだおあずけだが、舞花はもう味見を済ませたようだ。ふっくらとしたほっぺに、真っ白なホイップクリームがちょこんと乗っている。
「もうちょっとだからね」
そう言うと舞花はくるりと方向を変え、またパタパタと音を立てた。
「だめーっ! ママ。イチゴはわたしがやるのっ」
どうやら最後の段階に入ったらしい。おもむろに、僕は新聞をめくる。一枚、二枚……。
そうこうするうちに、先ほどとは打って変って、全く音を立てずに舞花が部屋に入ってきた。苺のたっぷり乗った、両腕いっぱいの大きなケーキ。落とさないよう、真剣な表情だ。
舞花には悪いが、いつも僕はこの時吹出しそうになる。両手に抱えたケーキに集中するあまり、微妙に寄り目になっているのだ。あれでちゃんと歩けるから不思議だ。加えて、運ぶ間中、息を止めているので、みるみるうちに頬が真っ赤になる。しかし、キッチンとリビングの中間地点を過ぎる辺りで、どうやらそれは限界になるらしく、そこを超えると急に歩みが速くなるのだ。
結局、最後は転がり込むようにして、無事テーブルの上にケーキを着地させると、舞花は大きく一つ息を吐いた。
ぷはぁーーっ!
それが合図かのように、妻が、綾名(あやな)が、新聞に隠れて笑いをかみ殺している僕の元に、三人分の紅茶を運んでくる。
「お待たせ」
「おまたせっ」
「ああ」
僕は新聞をたたんだ。
「おっ、美味そうだなあ」
「ママ、ママ、はやくきって」
ケーキから一度も視線を外すことなく、舞花が言った。
「いちばんおおきいのを、パパにあげるね」
「どれも一緒だろ」
「ちがうよ。はい、これがパパの」
「まあ、いいわねえ。パパのは大きくて」
そう綾名は口を合わせると、僕を見て微笑んだ。
「うん。いいだろう」
僕は綾名に微笑み返した。そして、出来上がったばかりのケーキをほおばる。バニラと苺の香り。優しい甘みが口いっぱいに広がる。
「パパ、おひげ。しろいおひげ!」
舞花がころころと笑いながら、僕を指差す。口の回りには、ふわふわのホイップクリームでできた白い髭。だが、それは舞花も同じだ。
たわいのない会話。楽しそうな笑い声。絶えることなくそれは続く。日曜日の午後、幸せのホイップクリーム……。
夢――か。
かつては真っ白だった、茶色いしみだらけの天井を見つめながら、僕は呟いた。こんな夢は久しぶりだ。いつの間にか、このソファで眠ってしまったからか。いつもここで、二人が作ったケーキを食べて……。
ゆるゆると体を起こし、埃だらけのテーブルを見つめる。
いつも見る夢は同じだった。「痛いよ、痛いよ」 高熱にうなされながら舞花が僕を見る。僕はただ舞花の小さな手を握り、髪を撫でる。あるいはそれが、綾名の時もある。苦しげな息の中、僕を見つめるその瞳だけは何故か穏やかで。その側で、僕はぼろぼろと涙を流した。
あの時。
娘を、妻を、相次いで失った、もう二年も前のあの日に、僕の世界は終わった。全てがその時、闇に閉ざされた。そう思った。しかし……。
僕はゆっくりと首を傾けた。割れたガラス窓を通して外を見る。風が土埃をあげながら、我が物顔に道を走る。すでに廃墟となった向かいの家のドアが、ひっきりなしに音を立てる。
僕の世界は、もう一度死んだ。半年前にもう一度。この街で、僕一人が生き残った時に。
それは、ある化学物質が原因だった。とある工場から垂れ流された排水に、それは混ざっていた。通常の浄化装置では除去できず、その物質は飲用水に紛れこんだ。すぐに人体には影響が出ない。そのことが事実の露見を遅らせ、被害を大きくした。
体内に蓄積されたその化学物質は、ある日突然、人々に襲いかかる。体中に大きな腫瘍を作り、高熱を与え、十日もしないうちにその命を奪うのだ。皮膚を覆う醜い腫瘍、確実に潰える命。ヒステリーに近いパニックが人々を覆った。しかし、有効な治療法は見つからなかったものの、その化学物質を中和させることに成功したため、被害は極地的なレベルで踏み止まり、徐々に人々は安息を取り戻した。これは、僕が生まれる前の話だ。でも、結局人は万能ではなかった。中和して生まれた物質が、汚れた水の中で別の化学物質と結合し、再び人々に牙をむいたのだ。
強大な感染力という新たな武器を有した敵は、凄まじい勢いで広まっていった。それを前に、人々は防戦一方であった。病が発生した村を隔離する、あるいは反対にまだ発生していない街を隔離する。そういう原始的な方法を余儀なくされた。
閉ざされた小さな空間の中で、人々は不安を募らせていった。まことしやかに流れる新薬の噂を信じた患者が、まだ汚染されていない地域に入り込もうとして殺されるという痛ましい事件も、そこかしこで起きた。しかし、そんな情報が流れてくるうちは、まだ良かった。寸断された社会は少しずつそのエネルギーをなくし、やがて情報網も途切れ、ただひっそりと、自分の息の音だけを聞くこととなる。そうなって初めて人類は、自らが、滅亡という名の契約書にサインをしてしまったのだということに、気付いたのだ。
だから……。
舞花も綾名も、こうなることは分かっていた。だが、僕より先になるとは思っていなかった。街から人が消えてしまうことも、よく理解していた。だけど、だけど……。僕が最後の一人になるとは夢にも思っていなかった。
僕は両手で顔を覆った。指先に触れる髪を掻きむしる。
僕一人、生き残った。今はただ、一日も早く発病することを待っている。自ら死ぬことは出来なかった。死にたい。死にたい。でも、舞花の、綾名の、生きたくても生きることを許されなかった者の、あの最後の姿が目に焼き付いて出来なかった。自ら命を絶つことだけは、どうしても……。
僕は顔を覆っていた手を下ろした。右の目から、一粒涙が零れ落ちる。
前はもっと、たくさんの涙が出たように思う。今はどんなに苦しくても悲しくても、もうほんの少ししか流れない。涙が枯れるというのは、本当にあることなんだ。
僕はそこで、再び割れたガラス窓に視線を移した。さびた風景。命の絶えた街。土埃の舞う道に……人影。
……人影?