僕はわずかに目を細めた。人がいるわけがない。絶対にあり得ない。でも、見える。道の真ん中に人が立っている。男……若い男だ。
頭がおかしくなったのか――。
それが一番高い可能性だ。もっと早く、もっと前から狂っていても、決しておかしくないはずだもの。
僕はもう少しよく見ようと、ソファから立ち上がった。窓辺に近づき、その男を見る。二メートル位の距離から、男の横顔をまじまじと見る。
髪は短め、目は黒目がちで可愛らしい印象だ。鼻筋はすっきりと通っていて、口元は少しふっくらとしている。非常に整った顔立ちだ。
そこで僕はピントを少し後ろに引いた。全体を眺める。
背は高くない。体つきは華奢な感じだ。がりがりではないが、細い。服はフードのついた黒い上着とGパン。中にはTシャツだろう、鮮やかなオレンジ色が胸元から覗いている。靴は薄いブルーに黄色いラインが入ったスニーカー。
そこまで見ると、僕はいったん観察を中止した。その男が、ゆっくりとこちらを振り返ったからである。男は僕に気がついた。小さく首を傾げたまま僕を見る。僕は一歩、二歩、そして三歩、後ずさりをした。
不意に、男が笑った。にこっと、そんな感じで。三つか四つの子供が見せるような、やたら楽しそうな笑顔で近づいてくる。そして窓の所で立ち止まると、ガラスの割れ目にすっと右手を差し入れた。その手を見る。そこに、紙のようなものがある。僕はそろそろと近づくと、その手から紙を毟り取った。男はまだ笑っている。
僕は、その紙を見た。そこには文字が連ねられていた。急いで目を通す。最後まで読む。そして……。
僕はしばらくそこに立ち尽くしていた。僕の世界は死んでいる。もう、二度も。だから、こんな事、何でもないはずなのに――。
気がつけば、僕は呻くように嗚咽していた。それは手紙だった。一つの街が滅びる様を。そこにある全ての生が、失われゆく様を……。その街で最後の一人となった者が、命の灯火の限りを尽くして書き綴ったものであった。街の名前には記憶があった。ここからは、かなりの距離になる。二百キロメートルくらいは、離れているはずだ。にも関わらず、手紙はここまで来た。ここまで……。
僕は窓に視線を戻した。若い男は、またにこっと笑った。この男に手紙を託した人間が、その街の最後の人間だった。つまり、この目の前にいる男は、人間ではない。ロボット――ただの、機械だ。そしてこの機械は、ここに辿りつくまで、誰にも手紙を渡すことなく来たのだ。誰にも出会うことなく……。
僕の嗚咽はさらにひどくなった。
僕は、この家でたった一人だ。
僕は、この街でたった一人だ。
そして僕は、この世界で、たった一人なのかもしれない……。
いつの間にか……。
僕は少し眠ってしまった。目を開けると、部屋はすっかり薄暗くなっていた。明かりをつけようと立ち上がり、一瞬どきりとする。心臓が一つ、ばくんと大きく脈打つ。
なんだ、まだいたのか。
僕は声を出さずに呟いた。その声が聞こえたかのように、またにこりと笑う、窓辺に佇むロボット。誰かに手紙を渡した後の命令は、何も受けてないようだ。
別にこのまま放置しておいても構わないが、どうにも人型というのが気になって仕方ない。
とりあえず……とりあえず、家の中に入れることにするか。
僕はロボットに向かって手招きをした。しかしロボットは首を傾げたまま動かない。人型というのはあまり性能が良くないと聞いてはいたが、本当のようだ。仕方なく僕は、ドアの所まで行って扉を開け、もう一度手招きをした。するとようやく理解したのか、にこにこ笑いながら近づいてくる。頭の性能は良くないが、外見的には申し分ない。至近距離でじっくりと見ても、とても人造とは思えない。よく出来ている。動きもスムーズだ。先ほどから何度も見せてくれる笑顔も、細やかで滑らかだ。
これは、ひょっとしたら……。
僕は扉を閉めながらロボットに尋ねた。あまりにも久しぶりに出した声は、カラカラに擦れた耳障りな音だった。
「君……名前は?」
「タクミ」
柔らかな響きだ。僕とは対照的に、なんの苦もなく発せられた音。少し舌足らずな甘めの声。それを聞いて、僕は自分の予想が正しかったことを確信した。
これは、ペット型だ……。
そもそも人型のロボット自体、数は少ない。ロボットが一般家庭に普及し始めた頃、いわゆるサーバント用に人型が作られたが、単純に作業効率を考えるとかえって無駄が多いことが分かり、すぐにこれらは形を変えた。結果、人型は、テレビやイベント会場などで見かけるだけとなってしまった。
そんな中、人型ロボットに新たな活路が見出された。外見、動きは人と見まごうほどの精巧さを追求、感情表現も細やかで、小学生程度の学習能力もある。性別、年齢、容姿も様々なタイプが用意され、「あなただけの新しいファミリーが、クリスマスの夜に届きます」という鮮烈なキャッチコピーも添えられた。
あまりにも人に似た姿とその用途は、当然のごとく激しい非難を巻き起こした。人権問題に関わるとの判断だ。メーカー側は、あくまでもこれはロボットで、子供を亡くした親、長年連れ添った伴侶を失った老人などの、心のケアになると抵抗を見せたが。人を失った穴埋めを、安易にロボットで補うなんてという考えが大方を占め、結局ほんの少し出回っただけで、すぐに販売中止となった。それ以来、人型は作られていない。お陰で、存在を許された数少ないロボット達は、一部のマニアの間で途方もない値がつけられ、取引されることとなった。まだ、人が未来を持っていた、そう遠くない昔に――。
僕は再びしげしげと目の前のロボットを見た。視線が合った瞬間、にこりと笑う。上手く出来ている。可愛く感じる。これがもし成人した女性や、六歳くらいの少女の姿であったら、僕はどうかなってしまったかもしれない。いや、違う。僕はもう、とっくに……。
「そうか、タクミと言うのか。僕は、僕の名前は――」
僕はタクミを見つめた。タクミの大きな瞳が好奇心に満ちた光を放つ。小さな子供のように、くりっと輝く。
「僕は――パパだ。君のパパ」
「パパ」
笑顔でタクミは答えた。涙がこぼれそうになった。
そう、僕はとっくに、とっくに、狂っているんだ……。