短編集2                  
 
  マザー  
             
 
 

 

 マザー・コンサルタントを訪れる客は、大きく二つに分けられる。一つは単なる好奇心から来る野次馬で、彼女達は母になる気持ちなど微塵もなく、ただ暇つぶしに来る人達だ。それが独り身の年配者であったりすると、かなり性質が悪い。一方的に関係のない話をし、愚痴をこぼし、ストレスを発散するだけしたら、即、退散する。嫌な客だ。いや、厳密に言えば客ではない。
 もう一方はその反対で、大方自分の中で決心しているのだが、事が事だけに踏ん切りがつかず、誰かの後押しを求めている客である。私くらいのベテランになると、一目でその区別がつく。これは良い営業成績をおさめるためには大事なことだ。母になる気もない客に、長々と説得するのは時間の無駄にしかならないし、その間に、他の大切なお客様を逃してしまうことにもなり兼ねない。逆に、せっかくその気で来ている者にピントの外れた話をしてしまうと、余計に相手を悩ませ、混乱させてしまう。結果、『また、今度』などという、再び店を訪れる気は百パーセントないという意味の言葉を、食らう破目となるのだ。
 だからこそ、お客が入って来たその時、一瞬でどちらの方かを見抜く必要があるのだ。そしてこの場合、この橋本綾子さんの場合、紛れもなく後者であった。
「友達が、反対しますの……」
 彼女は視線を自分の手元に落とし、大人しげな声で言った。
「友達のお友達で、母となられた方がいらっしゃって……。その方、男性の方と一緒に暮らしておられたのですが、その男の方がとても反対なさって。なのに、人として大切な義務だからと、強引に出産を決意されて、それで……」
 それは、随分と早まったことをしたわね。
 私は心の中で呟いた。
 女性が身ごもることがなくなって二百年ということは、男性が身ごもった女性を目の当たりにする機会がなくなって二百年、ということなのだ。妊婦という普段とは異なる姿に、女性の偉大さを感じ、尊敬の念を覚えるなどというような感覚は、今の男性諸氏にはほとんど皆無であろう。もっとも昔の男性が、果たしてそんな気持ちでいたかどうかは怪しいものだが――。
「周りの方のご理解が得られなかったとは。その方、さぞかしご苦労なさったでしょうね」
 心とは全く別の言葉を、私は苦もなく繰り出した。
「でも、御立派なことなのですのよ。母になろうと決心されることは」
「分かっていますわ。それは、分かっていますの」
 彼女は目を伏せたまま言った。
 すると、ここが迷いのネックではないわけだ。
 私は、彼女が再び口を開くのを待った。
「でもその方……。妊娠されている間に、気が変わられてしまって……」
「なるほど」
 私はさも理解ありげに頷いた。この言葉は嘘ではない。私の心の声と同意だ。ただし心の声はその後に、『これで切り崩すポイントが分かったわ』と、続くのだが――。
「よくあるケースですわ」
 私は半身を乗り出しながら言った。
「正直言いまして、私どもの調査によれば、約七十三%の方に、妊娠中、気持ちの変化が起こっています。あれほど慎重に検討し、熟考の上決心したにも関わらず。迷いが生じ難いよう、子供は遺伝的な繋がりを持つ者に限定しているにも関わらず。ご存知のように、現在の法律では母体に危険があるなどの特別な場合を除いて、中絶は認められておりません。いったん心変わりをしてから出産までは、ただ後悔の連続となってしまいます。ただでさえ苦痛を伴う出産を、嫌でも迎えなければならない苦しみは、筆舌し難いものと言えるでしょう。だから、もし心変わりをしたらというあなたの不安は、至極もっともなことなのです。でも、そのことで、思い悩む必要はありません。気持ちの変化は、一回だけとは限らない。その強さも、日によって、あるいは時間によって様々なのです。心が安定しないのは、妊婦という特別な状況下によって起こること。なので、安心なさって下さい。当コンサルタントは、業界の中で最もお客様の心のケアを重視しております。二十四時間体勢でご相談に応じられるよう、十分なカウンセラーの数をご用意させて頂いています。確かに、母となることは大変な労苦です。でも、その意義の崇高さの前には、それはさほどの意味を持ちません。本当に、素晴らしいことなのですよ、母になるということは。ですから――」
「違うんです」
 予期せぬタイミングで否定され、私は面食らった。
「……違う?」
「ええ、全然違うんです」
 彼女はそう言うと、黙って俯いてしまった。
 違うって何が――?
 私は少々じれったくなってきた。経験からすれば、彼女のようなタイプ、おっとりとした優柔不断な感じの客は、与し易いはずである。面倒な駆け引きなしで、多少強引に押しきればいい。なのに、彼女のこの態度はどうだ。いやいや、焦りは禁物だわ。どうやら私は読み違いをしていたらしい。もう少し探りを入れてみなければ。幸い、今日は他にお客もいないし、じっくりやらせて頂きましょう――。
 私は再びにっこりと笑みを浮かべた。
「良かったらお話の続き……そのお友達の話を、聞かせて下さいな」
「え……ええ」
 一つ頷いてから、必要以上に間を置いて、彼女はぽつぽつと話し始めた。
「あの……その方が、急に気が変わられたというのは……。あなたのおっしゃっているのとは、全く逆の意味なんですの」
「逆?」
「ええ、つまり。その方は妊娠中に、子供に……。お腹の中の子供に、何ていうんですか、愛情のような感情に目覚めてしまわれて」
「まさか?」 私は驚いて言った。
「それでは、その方に母性の目覚めがあったと言うのですか?」
「ええ、そうです、そうです。確かそうおっしゃってましたわ」
 なんということだ――。
 私は少なからずの興奮を覚えた。

 
 
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  マザー・2