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8代藩主 松平容敬 (まつだいら・かたたか)

名前 松平容敬
誕生 *公式には容敬は6代藩主容住【かたおき】の3男で7代藩主容衆【かたひろ】の弟だが、実際は、水戸6代藩主徳川治保【はるやす】の次男義和【よしなり】(のち高須藩に入り、9代藩主となる)の庶子で、会津藩家老田中玄宰の周旋で、極秘のうちに養子に迎えられた(『会津戊辰戦史』)
死没 嘉永5年(1852)、病没。享年数え46歳。
治世 文政5年(1822)〜嘉永5年(1852)の31年間。
小史 容敬襲封前後-文化・文政期の会津藩
家老田中玄宰とともに寛政の改革を行った5代容頌【かたのぶ】が文化2年(1805)に死去したが、6代容住【かたおき】は治世わずか4ヶ月で病死した。後継の7代容衆【かたひろ】は3歳で、玄宰は幼君を補佐しながら引き続き改革路線を推進したが、財政窮乏は続き、文化3年(1806)には知行取藩士の俸禄を面扶持【つらぶち】に切り替えた。文化5年(1808)には幕命により蝦夷・樺太警備のため出兵し、通商を求めて南下するロシアの脅威に備えた。さらに文化7年(1810)には江戸湾警備を命ぜられ、文政3年(1820)まで10年間、藩士を駐留させた。江戸湾警備に要する経費は巨大なもので、〜。

文政5年(1822)、兄・7代容衆が20歳で死去し、容敬が8代藩主に就いた(17歳)。藩の膨大な借金は長期返済(年800両)のめどがつき、文政6年(1823)には面扶持を停止して藩士の俸禄を元に戻した(18歳)。藩財政も徐々に余裕ができ文政12年(1829)には年間5000両が残った(24歳)。

天保の飢饉と改革
ところが、天保元年(1830)以後、会津は不作・地震・水害に相次いで見舞われ、天保4年(1834)には大凶作となった。不作は天保6〜9年にも続き、農民の生活は非常に苦しくなった(天保の大飢饉)。藩では年貢の軽減、救済米の分配、農民に対する賦役の停止などの対策をとったが、手余地(耕作放棄地)は増大し、農村人口は激減した。年貢収納も激減し、藩財政にも大きな打撃となった。容敬は、社会的・経済的不安に対処するため、農民・困窮町民のための棄捐(借金棒引き)、役人の綱紀粛正、価格統制による物価引下げ、株仲間の解散などの改革を実施した。弘化年間に入り、物価統制の停止、株仲間の再興など天保改革の修正を行ったが、財政難は続いた。

江戸湾警備
弘化4年(1847)、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航すると、海防強化をはかる幕府の命令により、会津藩は忍藩・川越藩・彦根藩とともに、再び江戸湾防備を担当することになった。容敬は、文化7〜文政3年の10年に渡った爽秋警備、財政難を理由に任命回避をはかったが、老中阿部正弘に説得された(年譜16)。同年には藩士一瀬大蔵を江川太郎左衛門に入門させ、西洋砲術を学ばせた。容敬は海防には積極的だったが、藩財政には大きな負担となった。財政難から幕府に援助をしばしば求めた。

この時期、江戸湾防備についたことは、会津藩が海防問題について中央政局に参加するきっかけとなった。嘉永元年(1848)、浦賀奉行浅野が、江戸湾警備の川越・忍・彦根・会津の四大名に意見を求め、翌2年(1849)、マリナー号〜。幕府は四大名に異国船入港の際の処置を協議させた。この際、容敬は、異国船来航時の沿岸警備強化を上申すると同時に、異国船打払令復活については海防不十分を理由に否とした(関連:「開国開城(1)ペリー来航:(A)開国の序幕」)。さらに嘉永4年(1851)、江川太郎左衛門に大砲鋳造を依頼し、砲台に設置した。同年末には将軍が〜。容敬は家老以下藩士を召しだして「汝らが平生力を尽くして奉職した結果である。今後もますます精励しよう。汝らも勉めよ」

嘉永5年2月急逝した。養嗣子として迎えた容保は弱冠18歳。早すぎる死であった。
評判 ・「」by 井伊直弼
詩歌

<参考>『会津藩第八代藩主松平容敬「忠恭様御年譜」』、『会津松平家譜』
『近世会津史の研究・上』、『開国と幕末政治』、『井伊直弼』


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