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開 国 前 夜 (1)

<要約>

アメリカの提督ペリーが来航する嘉永6年(1853)直前の天保時代、日本は内憂外患の時代であった。

内では、天保の大飢饉から一揆・打ちこわしが頻発して、大坂では、元与力の大塩平八郎が救民を掲げて蜂起する事件が起こった。財政危機と社会不安に対処するため、幕府は質素・倹約を主眼とする改革(天保の改革)を強力に推し進めた。しかし、改革事業の一つ「上知令」が関係大名の反発を呼んで、首席老中水野忠那は失脚し、改革はわずか2年で頓挫した。幕政改革の失敗、大名の異議による幕閣の更迭は、幕府の威信を損なった。【A:大塩平八郎の乱と天保の改革

一方、対外関係では、18世紀末から異国船が近海に出没し始め、幕府は鎖港堅持のため、異国船打払いを命じていた。しかし、天保時代に入ると隣国の清でイギリスとの間にアヘン戦争が勃発し、衝撃を受けた幕府は避戦策に転じ、薪水給与令を発した。その一方で洋式砲術の導入等、海防強化を図ったが、多くは水野の失脚とともに後退した。【B:水野忠那の対外政策とアヘン戦争

参照:対比年表:寛政4(1792)〜嘉永5(1852)

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 ペリーの来航予告

A. 大塩平八郎の乱と天保の改革

将軍家斉(大御所)⇒家慶 首席老中?⇒水野忠那
天皇仁孝天皇 関白:鷹司政通

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◆天保の大飢饉

ペリーが浦賀に来航し、日本が開国をする直前の天保時代、国内では、天保4年(1833)からの大凶作(天保の大飢饉)で、農村が荒廃し、米価や諸物価が高騰して、人々は困窮し、餓死者も多く出た。このため、農村部の一揆・都市部の打ちこわしが各地で頻発した。

◆大塩平八郎の乱

飢饉の影響は、全国から米が廻送される天下の台所大坂にも及び、天保8年(1837)には、幕府の窮民対策に不満をもつ元東町奉行与力の大塩平八郎が、貧民救済をかかげて蜂起するという事件が起きた)。計画は事前に計画が漏れ、乱は一日で制圧されたが、江戸に続く第二の大都市で、武士、しかも元幕臣が政治批判から反乱を起こしたことは社会各層に大きな衝撃を与えた。

天保の改革

天保の飢饉と、それに続いた一揆や大塩平八郎の乱は社会不安を生じ、財政逼迫(天保8〜12年の幕府の経常赤字は年平均63万4千両)と伴って、幕府内部に「体制に対する危機意識」(『幕藩体制の展開と動揺(下)』)を生じ、政治改革への機運が高まった。

天保12年(1841)、院政を敷いていた大御所(前将軍)・徳川家斉が没すると、首席老中水野忠那は天保の改革に着手した。水野は質素・倹約を改革の主眼とし、綱紀粛正・冗費節約、倹約、出版統制を推し進めた他、物価引下げのために株仲間解散を命じた。

(水野が改革を断行した理由の一つには天保10年(1839)に勃発したアヘン戦争の脅威も挙げられている。⇒(B))。

水野忠那の失脚と阿部正弘の台頭

■「上知令」と水野忠那の更迭

水野は、天保14年(1843)には、御料地改革、印旛沼開拓(耕地拡大・年貢増大・江戸と農村部の物流拡大が目的)、上知令(江戸・大阪近郊の大名・旗本領を幕領とする命令)という三大改革事業に着手した。しかし、上知令は、領主交替による年貢の増大・旧領主への貸付の消滅を恐れた農民や、関係大名・旗本の反発を招いた。幕閣や奉行からも反対の声が上がり、同年閏9月、ついに上知令は撤回され、水野は罷免された。天保の改革は2年で挫折したのである。

■阿部正弘の政権掌握

水野の失脚で幕閣の顔ぶれは一新され、新たに福山藩主阿部正弘らが入閣した。首席老中には古賀藩主土居利位(どい・としつら)が就任したが、翌天保15年(1844)、火事で炎上した江戸城本丸再建事業の上納金が大名の反発を招いて、辞任に追い込まれた。幕政改革の失敗と、大名の異議による幕閣崩壊が短期間に相次いだことは、幕府の弱体化を表面化させる結果となった

土居の後任には水野が復帰したものの、阿部らと対立し、力をふるえないまま、弘化2年(1845)には再度辞任となった。その後には阿部が首席老中の座につき、、約一年半の間に首席老中が3人も入替わる政治混乱は収束した。阿部政権は安政2年(1855)まで10年間続く長期安定政権となり、ペリーの浦賀来航を迎えることになる。

◆諸藩の藩政改革

薩摩・水戸・長州・会津をとりあげる予定^^。
水戸藩
 徳川斉昭の襲封と天保の藩政改革:文政12(1829)年10月、藩を二分した後継者騒動の末、前藩主実弟の徳川斉昭が9代藩主に就任した。財政逼迫と対外危機意識の高まり(英国船の水戸領大津浜接近等)を受けて、斉昭は次々と藩政改革を断行して名をあげ、幕府の天保改革に影響を与えた。また、海防強化の主唱者としても有名だった。⇒「水戸藩かけあし事件簿」(準備中)
余話:「老中めざして領地替-水野忠那」、「転封阻止!庄内農民奔る」、「天保の改革と遠山の金さん」(準備中)「雪華図説」(天保3年)
オススメ小説:藤沢周平『義民が駆ける』


B. 水野忠那の対外政策とアヘン戦争
(天保年間)

将軍家慶 首席老中:水野忠那
天皇仁孝天皇 関白:鷹司政通

◆天保期前の対外政策

■鎖国(鎖港)下の海外貿易と情報流入

徳川幕府は、2代将軍秀忠・3代将軍家光の時代以来、鎖国(鎖港)政策をとっていた。鎖国(鎖港)体制下、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国は禁止されたがオランダと中国との通商は長崎において引き続き行われた。通信(外交)は朝鮮・琉球に限られた。(オランダ・中国・朝鮮・琉球以外の国を「異国」と呼ぶ)。鎖国とは幕府が海外貿易を統制し、海外情報の独占をはかる体制であり、日本が世界から完全に孤立していたわけではなかった。海外情報入手ルートとして最も重要だったのはオランダで、出島のオランダ商館は、毎年、外国の情勢を記した「オランダ風説書」を幕府に提出していた。(なお、松前藩はアイヌ、薩摩藩は琉球貿、対馬藩は朝鮮と交易をおこなっていた)

異国船の近海出没-ロシアの南下

しかし、18世紀になると、ラッコの毛皮などを求めるロシア船が蝦夷地に接近し始め、寛政4年(1792)にはロシア使節ラクスマンが漂流民を同行して根室に来航し、通商を求めた。(通商を求めて日本を訪れた異国船はペリー艦隊が最初ではなかった!)。幕府は通商を覚悟して長崎入港証を渡したが、文化元年(1804)にロシア使節レザノフが長崎に入港したときには、鎖国体制堅持を選び、レザノフの通商要求を拒んだ。これを不満とするロシア側は、通商を強制するため、樺太、エトロフ島を攻撃し、エトロフ守備隊を敗走させた(フヴォストフ事件)。ロシアの脅威に対処するため、幕府はロシア船打払い令を発して、蝦夷地の警備を強化した。その一方で、ロシア以外の異国船に対しては、日本の事情を説明して帰らせ、必要に応じて薪水を供与するよう、穏健な避戦策を指示した。

■イギリスの登場

ところが、文化5年(1808)にはイギリス軍艦フェートン号が長崎に入港し、出島のオランダ商館員を人質にとった上で、市中を焼き払うと脅迫をして、薪水を要求するという事件が起こった(フェートン号事件)。長崎奉行は警備手薄から要求をのみ、責任をとって切腹した。さらに、この頃から、英・米の捕鯨船が漁場を求めて近海に現れ始めた。文政7年(1824)5月には常陸国大津浜に英国捕鯨船員が上陸して住民に薪水を要求し、水戸藩士が緊急出兵する大騒動となった。

■文政の異国船打払令

翌文政8(1825)年、幕府はついに対外強硬路線に転じ、異国船打払令(無二念打払令)を出した。しかし、その後、異国船は沿岸に出没せず、打払いによる国際問題も起こらなかった。対外的には平穏に過ぎていき、海防強化も実行されなかった。

◆水野政権の対外政策

■モリソン号事件と海防強化の検討

天保8年(1837)、浦賀沖に現れた異国船が打払令により追払われた。翌天保9年(1838)にオランダ船が長崎奉行に伝えた情報では、異国船はイギリス(実際はアメリカ)商船モリソン号で、漂流民の日本返還と通商を求めるために来航したものだった(モリソン号事件)。

江戸近海の海防強化の必要性を感じた水野は、目付鳥居忠輝(耀蔵)と韮山代官江川太郎左衛門(英竜・坦庵)に巡検を指示した。調査の結果、両者は江戸湾防備改革案として大名や旗本を動員すること等を建策した。蘭学者と親交のある江川はさらに大艦建造も提案した。しかし、これらの建策は、海防支出に消極的な勘定方の抵抗にあい、実行に移せなかった。(軍備増強に対する勘定方の抵抗はその後も続く)。

■モリソン号事件と「蛮社の獄」

モリソン号事件は、一方で、蘭学者たちの弾圧事件を招いた。天保10年(1839)、幕府は、事件の対応について幕政を批判した蘭学者の渡辺崋山(三河田原藩家老)・高野長英(シーボルトの弟子で町医者)や無人島渡航(国法である海外渡航禁止に触れる)を計画した人々を処罰したのである()。

アヘン戦争と天保の薪水供与令・海防強化

天保10年(1838)に中国で勃発したアヘン戦争は幕府の対外政策を大きく転換させることになった。翌11年、オランダ船からアヘン戦争の報が届くと、清を大国だとみなしていた幕府は大きな衝撃を受けた。天保13年(1842)、長崎へ入港したオランダ船からイギリスの来襲情報がもたらされ、幕府は、戦争回避のため、文政の異国船打払令を撤回して、異国船への薪水給与令を出した。その一方で、老中水野は海防体制強化を図り、江戸近海警備のために下田・羽田奉行を設置し、諸大名に防備を命じた。また、西洋砲術家高島秋帆を登用して演習を行わせ、秋帆の門下江川太郎左衛門を鉄砲方に任命して西洋砲術を導入した。さらにオランダに大型蒸気船購入の見積りを依頼するなど海軍の創設も検討した。しかし、「海防強化の基礎となるべき、また海防を副次的な目的とする積極型の財政再建策」(『幕藩体制の展開と動揺(下)』)は、天保14年(1842)閏9月の老中水野忠邦失脚によって破棄され、水野の採った海防強化策もほとんどが撤回された
水戸藩
捕鯨船員上陸と水戸尊攘思想:文政7年(1824)、英国船員12名が水戸領大津浜に上陸すし、水戸藩は会沢正志斎らを筆談役として派遣した。会沢は、異国船の日本沿海進出(西洋の侵略)に直面しながら、防備も対策ももたない現状に危機を感じ、翌文政8年、尊王攘夷派のバイブルとなる「新論」を著した。「新論」は国家的危機に直面した幕藩体制を強化するための、上からの国家主義政策を説いた政治論である(水戸学が討幕の学問でないことに注目っ!「いろはに幕末水戸藩」「水戸学」
会津藩
会津藩と海防:会津藩が最初に海防に関ったのは、7代藩主容衆の時代で、ペリー来航より50年近く前になる。そのきっかけはロシアの蝦夷進出だった。フォボストフ事件後の文化4年(1807)、幕府は蝦夷に調査団を送ったが、そのとき、会津藩は藩士野村忠太郎を同行させた。翌文化5年には幕府の命令で、仙台藩とともに蝦夷警備に出兵したが、事態が沈静化したため、年末には帰国した。文化7年(1810)には江戸湾警備を命じられ、10年間警備についたが、財政逼迫を理由に、文政3年(1820)、警備免除を願い出て、許可されている。
余話「パン祖」!幕府代官江川太郎左衛門

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 ペリーの来航予告

(2002/10/20)

<主な参考文献>
『集英社版日本の歴史15 開国と幕末』、『講談社版日本の歴史18 開国と幕末変革』、『日本開国史』、『開かれた鎖国』、『幕藩体制解体の史的研究』、『日本歴史大系 幕藩体制の展開と動揺(下)』、『開国への布石 評伝阿部正弘』、『人物叢書 江川坦庵』、『人物叢書 川路聖謨』、『茨城県の歴史』、『茨城の思想』、『日本思想大系53 水戸学』、『明治維新の源流』、『逸事史補・守護職小史』、『徳川慶喜公伝』、『昔夢会筆記』、『会津松平家譜』、『会津歴史年表』、『覚書幕末の水戸藩』

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