京都守護職公用人・公用局員を中心に幕末会津藩士のプロフィールと小史をご紹介。
UPずみの藩士についても随時情報を追加していきたいと思います。
8代藩主松平容敬 | ペリー来航の前年まで31年間会津を治め、井伊直弼に「当今英雄の大将」といわしめた先代。水戸6代治保の次男義和(のち高須9代)庶子。 |
ア | 秋月悌次郎 | 西国藩士と人脈があり、禁門の政変(8.18の政変)の立役者となった諸生出身の公用方勤。 |
井深宅右衛門 | // | |
大野英馬 | 取調担当の公用方勤。 | |
大庭恭平 | 足利木像鳩首事件に関与した会津藩の「密偵?」 | |
小野権之丞 | 五稜郭では箱館病院事務長を務めた公議政体派?の公用人。 | |
カ | 梶原平馬 | 奥羽越列藩同盟に奔走した主戦派家老 |
萱野権兵衛 | 会津戦争の責任者として、戦後、切腹した家老 | |
倉澤右兵衛 | 中川宮に貸し出された公用人。 | |
郡長正 | 会津戦争後、遊学先で「会津士魂」を守るため切腹した萱野の息子 | |
小室金吾 | 公用人。 | |
小森久太郎 | 設置当初から公用方を主導した公用人 | |
サ | 西郷頼母 | 守護職就任を諌止。辞職を諌言しして免職。容保帰国後に復職したが恭順論を唱えて城を出され、五稜郭で戦った藩祖と同族の筆頭家老。 |
佐川官兵衛 | 「鬼佐川」と京洛に恐れられた会津藩侍大将 | |
柴司 | 浪士と誤り土佐藩士を刺し、藩に迷惑をかけぬよう切腹した20歳 | |
柴太一郎(秀治) | 三条実美と連絡をとった公用方勤。 | |
神保内蔵助 | 新政府軍の城下進入時に切腹した家老 | |
神保修理 | 慶喜に東帰恭順を説き、江戸で主戦派に切腹させられた内蔵助の次男 | |
諏訪常吉 | 五稜郭で会津遊撃隊を率い、戦死した公用人。 | |
タ | 田中土佐 | 守護職就任を諌止したが容保上洛に随従。新政府軍の城下進入時に切腹した家老 |
手代木直右衛門 | 幕権回復派の公用人*見廻組佐々木只三郎実兄 | |
外島機兵衛 | 容保に恭順を説き、総督府陳情のため江戸残留するが急死した公用人*勘定奉行兼務 | |
ナ | 野村左兵衛 | 長沼流軍学家で、秋月・広沢ら諸生・下士を登用した「一藩の依頼」の公用人、「先生」 |
ハ | 広沢安任 (広沢富次郎) |
秋月とともに活躍した諸生出身の公用方勤。会津藩に珍しい開国派。総督府陳情のため、容保帰国後も江戸に残留。投獄される。 *のち、斗南藩少参事。 |
ヤ | 山川浩 | 樺太境界議定使節団に随行して露訪問*『京都守護職始末』著者 |
山本覚馬 | 会津藩きっての開明派。洋式兵術を導入した大砲頭取 *のち京都府会議長・同志社大学創設者 |
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横山常徳(主税) | 「江戸の三家老」とも称され、公用局設置にも尽力した名家老 | |
横山常守(主税) | パリ万博派遣団に随行し、会津戦争で戦死した常徳の跡継ぎ |
<主な参考文献>
『会津藩庁記録』、『維新日乗纂輯』、『再夢紀事・丁卯日記』、『続再夢紀事』、『越前藩幕末維新公用人日記』
『会津松平家譜』、『七年史』、『京都守護職始末』、『幕末政治と倒幕運動』、『会津人物事典(武士編)』
『幕末会津藩』、『明治維新人物事典』