<要約>
| 嘉永6年(1853)、米国提督ペリーが浦賀へ来航し、日本は開国への道を歩みだした。幕府は「国家の一大事」に慣例を破って挙国一致体制で臨み、幕臣の人材登用をはかった。しかし、この国政の混乱は、朝廷や諸藩の中央政治進出を招き、幕府独裁という従来の政治体制の解体を促して、「幕末」という時代の始まりをもたらすことになった。【A:ペリーの浦賀来航】 |
| 将軍:家慶→家定 |
首席老中:阿部正弘 |
海防参与:徳川斉昭 |
| 天皇:孝明 |
関白:鷹司政通 |
◆ペリーの来航
嘉永6年(1853)6月、オランダの予告(上記)どおり、アメリカ東インド艦隊提督ペリーの率いる軍艦4隻が浦賀沖に来航した。(★1)
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斉昭らの幕政進出:ペリー来航後、攘夷論者であるとともに海防強化論者として名高い前藩主徳川斉昭が海防参与に任命され、腹心の藤田東湖らとともに中央政界に進出した。斉昭の任命は越前藩主松平春嶽・薩摩藩世子島津斉彬らの働きかけによるもので、老中阿部が、斉昭を通じて斉昭を支持する有力大名(松平春嶽、伊達宗城、島津斉彬ら)に近づこうと画策したのだという。ちなみに、この当時、松平春嶽は鎖国攘夷論者であった。 海防愚存:斉昭/水戸藩の海防に関する意見は幕府に建議された「海防愚存」に表されている。海防愚存は和親を不可としているが、実は「」と記されていた。斉昭はその後も強硬な主戦論を唱え続けたが、このことから、実は「内戦外和の論」だったといわれている。⇒余話:「攘夷の巨魁」烈公の開国論 |
和親の必要性を建言:ペリーが浦賀に入港したとき、会津藩は船を出して警備に当たらせた。また、幕府が溜間詰諸大名に意見をきいたとき、藩主容保は彦根藩主の井伊直弼らとともに、外国との和親の必要性を建言した。しかし、家臣の中には鎖国攘夷を唱える者もおり、容保は憂えていたという。 |
| 余話:「ペリーをペテンにかけた浦賀奉行所与力」、「ペリーの見た日本(1)陽気なニホンジン」、「黒船で海外渡航!吉田松陰」、「ペリーに遅れをとったロシア艦隊」 |
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更新:2000/5/20、2002/10/24
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<主な参考文献>
『集英社版日本の歴史15 開国と幕末』、『講談社版日本の歴史18 開国と幕末変革』、『日本開国史』、『幕藩体制解体の史的研究』、『日本歴史大系 幕藩体制の展開と動揺(下)』、『幕末の天皇』、『孝明天皇』、『開国への布石 評伝阿部正弘』、『人物叢書 江川坦庵』、『人物叢書 川路聖謨』、『逸事史補・守護職小史』、『徳川慶喜公伝』、『昔夢会筆記』、『七年史』、『会津松平家譜』、『会津歴史年表』、『覚書幕末の水戸藩』 |
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