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10.農政-(2)年貢

慶安の検地

会津藩における年貢賦課の基準は保科正之が慶安元年(1648)に実施した検地により定められた。この検地は、領民の訴えにより、前領主加藤時代の「苛酷な石盛(反当たりの標準収穫量)」(『近世会津史の研究・上』)を実情に合わせて是正したもので、領民の年貢負担は大幅に減少したとされる。藩の表高は2万石減少したが、農民の新田開発が高まったので、3代藩主正容【まさかた】の時代までには約4万石増加し、差し引き2万石の増加をみた。

年貢率

年貢は米・金両方で納められていた。保科正之の時代の年貢率は40〜50%の間だったが、幕末の年貢率は8代藩主容敬治世の嘉永5年(1852)で53%(『近世会津の研究・上』:勝常村の例。藩全体の資料はないそうである)ほどだった。ちなみに、幕府直轄領(天領)では享保13年(1728)以後、5公5民(幕府が50%、農民が50%)が導入されたので、会津藩の年貢率は厳しいことがわかる。

幕末の会津藩では、年貢率計算には、豊凶作に関わらず過去の実績をもとに固定税率を定めた定免制【じょうめんせい】が採用されていた。この制度では、標準以上の収穫はすべて農民のものとなり、豊作時には収益が増える。しかし、水害・旱魃以外の不作時には不作割引がないので、労働力不足・作付け失敗などの理由で標準以下の収穫量しか得られなかった場合は、すべてを年貢にとられることになる。藩にとっては一定の税収が確保できるが農民にとってはリスクの高い制度だといえる。

(1)村方支配 (2)年貢 (3)貧農対策 (4) 農民の生活 (5)一揆

参考文献:『会津松平家譜』、『近世会津史の研究・上』、『会津藩の崩壊』

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