江戸時代の諸藩財政は年貢米によって支えられており、会津藩においても農政は藩政の基礎だった。
■ 行政区分 会津藩では、行政上は、領内を会津、河沼、耶麻、大沼の4郡に分け、さらに23組(1組当たり約1万石)に分けていた。組は複数の村より成っていた。 ■ 階層的行政組織(村方支配) 表10-2-1:会津藩の村方支配(農村行政組織)の階層
◆藩役人 会津 藩では郡に置かれた郡奉行が村方支配の責任者であり、各組に置かれた代官によって補佐された。田中玄宰【たなか・はるなか】寛政の藩政改革で、郡奉行・代官ともに在郷となり、藩による領内直接支配の強化が推進された。 ◆村役人・五人組 また、代官の下には、村役人として、1組ごとに郷頭【ごうがしら】(大庄屋)が置かれ、組を構成する各村には肝煎【きもいり】(庄屋・村長)が置かれた。肝煎は地頭【じがしら】(村長補佐)によって補佐された。村内の末端行政組織は五人組であり、年貢を納める地主百姓(本百姓【ほんびゃくしょう】)によって構成された。(五人組の代表は老百姓【おとな・ひゃくしょう】という監査役だったが、寛政の藩政改革で廃止された)。 ◆下層農民 本百姓の下には、水呑【みずのみ】(土地無し農民。本百姓の土地での小作や日雇で生計をたてた)、名子【なご】・下民【げみん】(本百姓に隷属する農民)がいた。不作などのため年貢が払えず禿百姓【つぶれ・ひゃくしょう】となった農民がこれら下層農民に転落することが多かった。 |
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