◆ 社倉法 承応3年(1654)、藩租保科正之は、傾倒する南宋の朱子が創設した社倉法を会津藩に導入した。社倉は窮民救済用貸籾の備蓄制度で、(1)天災・飢饉・火災、その他不時の災害の被災者、及び(2)医療・救貧・新田開発・土木治水工事などの目的に限って、貸与された。農民は収穫時(年貢収納時)に年2割の利子米をつけて返済した。 寛文3年(1663)には規模を拡大して領内23組(1組当たり約1万石高)に倉を建て、各々に籾46,000俵(米23,000俵=9,200石相当)を備蓄させた。 社倉法は、寛文8年(1668)に正之が制定した「家訓15か条」においても、「社倉は民のためにこれを置く。永利のためのものなり。歳餓れば、則ち発出して、これを救うべし。これを他用すべからず」(第14条)と定められており、代々受け継がれた。 一方で、藩では、貸米である社倉米の利息を「藩財政の重要な収入」(『会津藩の崩壊』)とみこんでいた面もあった。このため、農民が貸米拒否にでた寛延の大一揆(1749年)は、藩財政に大きな打撃を与えることになり、財政面からも一揆への緊急対処が求められることになった。(関連:「一揆」←準備中) ◆ 夫食米【ふじきまい】(食用米)の貸与 農民は、年貢収納後に残った米で暮らしていくが、貧農の場合、次の収穫時まで米がもたなかった。そこで、会津藩では、村高100石当たり貸米20俵(8石)の割合で、夫食米を貸与した。農民は、年貢収納時、2割の利子米をつけて返済した。夫食米の一部は社倉米から賄われた。 ◆ 御種子貸金 種籾まで食用にしてしまった農民のため、会津藩は、村高100石当たり金1両を貸与した。農民は、その年の暮れまでに2割の利子をつけて返済した。 |
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