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10. 大和屋事件の不思議 (2001/12/22)

(2001/10/11の井戸端投稿より)

新選組ファンのなかでは有名な(芹沢派によるとされる)生糸商大和屋の焼き討ち(同時代記録では砲撃ではなく放火です)ですが・・・攘夷親征の詔のでる13日の前日(12日)夜から13日にかけてのことなんです。

ところで、この事件、新選組隊士関連の史資料にはのっていません。いわれるように芹沢派のしわざなら、芹沢の悪口書き放題の永倉あたりが書き残さなかったのが不思議だとは思いませんか?壬生浪士とするのは同時代記録にあるので、確かなんでしょうけど。

さらに不思議なことに、会津藩の史資料にはこの事件はのってるんですよ。壬生浪士がやったとはかいていません・・・当時、攘夷親征を実現させるために激派浪士が天誅・商家(外国との交易によって利益をえている)焼き討ちなどやっていましたが、その一環であるかのように記されています。そして、13日夕方、浪士を制しきれない町奉行が会津藩の出動を要請したそうです。会津候が準備をさせて次の知らせをまたせているところ、事態が鎮静したので出動にはいたらなかったとか・・・。

のちに壬生浪士だとわかり、お預りの立場として面目を失い、激派浪士のしわざのように書き残しているんでしょうか。あるいは、壬生浪士としっていて出動をずらせたのでしょうか。まさか逮捕するわけにはいきませんから・・・。

それにしても焼き討ちはなぜ行われたのか。西村兼文の後年の記録(壬生浪士始末記)では攘夷の御用金とりたてに応じない大和屋に対し、外国と交易するのはけしからんと焼き討ちしたことになっています。攘夷親征をうながすためにテロを繰り返す激派浪士と似たようなやりかたですよね。もちろん、芹沢(?)は尊攘激派(というか水戸藩本国寺党ですね)に近いですが、彼らの預かっている会津藩がどう反応するかはわかっていたはず(フィクションでは酒乱で暴力的なので気に入らない大和屋を砲撃したことになってるけど^^;)。当時在京の水戸尊王激派には原市之進と梅沢がいます。水戸藩(藩主慶篤)自体は慶喜と同様に幕府への攘夷一任(ほんとは攘夷するつもりなし)派で親征には反対ですが、本国寺党はどうだったのでしょう?(原・梅沢の行動をおっかけ中です)。

・・・芹沢(?)らの行動が、本国寺党と通じたもので会津藩の反応も恐れず、あえて・・・攘夷親征を促すためにやったものだったとしたら?芹沢主導の浪士組は、完全に会津藩のコントロールを離れていることになりますよね。こうなると、まえにでてきた「水会利一存んの意図に相なりかねまじき」・・が気になります。わたしは芹沢主導の壬生浪士組は市中見廻りではなく、攘夷の先鋒を任ずる集団で、水戸藩の別働隊的性格があったと思っています。ほかにもいろいろ傍証になりそうなことがあるんで、そのうち整理してアップしたいです。


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