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11.清河八郎暗殺(1) 木鶏の精神?
文久3年4月13日(1863年5月30日)、清河八郎は、友人金子与三郎宅に招かれ、酔っての帰宅途中、一ノ橋付近で、浪士組取締役並出役(講武所教授)佐々木只三郎らに暗殺されました。享年34歳でした。(関連:「今日」「江戸で清河八郎暗殺される」@幕末館

(1)暗殺される前−清河のとった不思議な行動

清河は常日頃、身の安全を考えて4〜5人の警護をつけていたとされますが、この日は、1人ででかけ、斬られてしまいました。清河は、実は前夜から当日にかけて、死を予期していたともとれるような不思議な言動をとっています。

たとえば、清河は12日の夜、父親宛に手紙を書いていますが、その中に「生きている間はとかく評価が定まらないものですが、死んでしまえば、積年の赤心も天下に明らかになるでしょうから、たとえどのような噂があろうと、決してご心配なさらないように」(口語訳ヒロ)という一節があります。

また、13日、金子宅を訪問する前に、八郎は高橋泥舟宅に立寄ったそうですが、このとき白扇を求めて、次のような和歌を認めました。

「さきがけて またさきがけん 死出の山 迷はせまじ すめらぎの道」
「くだけても またくだけても 寄る波は 岩角をしも 打ちくだくらむ」


泥舟は、辞世のようで不吉であると感じ、風邪もひいているので金子に会うのはやめるよう言い残して登城していきました。残された八郎が泥舟の妻と雑談をしているところへ、山岡鉄舟の妻と妹がやってくると、八郎はやはり白扇を三本求め、それぞれに同じ和歌を認めました。

「君はただ 尽しましませ 臣の道 妹は外なく 君を守らむ」

これもまた、鉄舟・泥舟への遺言ともとれる句となっています。やがて、八郎は、ひきとめる澪に対して「約束だから」と出かけます。

その後、井筒屋に立寄ったとき、居合わせた浪士組大野喜左衛門に頼まれ、彼が横浜襲撃のために新調した陣羽織の裏に次のような和歌を認めています。

「しかばねは たとひ野山に さらすとも 記してくれよ 心ある人」

遺書や辞世とも取れる内容ですよね?一説に、清河は3月15日に横浜居留区襲撃を計画していたといいますので、親しい者への訣別の挨拶のつもりだったのかもしれません。

(2)木の鶏

さて、『清河八郎』で小山松勝一郎氏は、八郎は、浪士組横浜襲撃を中止させるために殺されるつもりで警護をつけず出かけたという解釈を示しています。 八郎は「焼討ちを実行すれば、どうのようになるのかわかっていた(ヒロ注:外国船が押し寄せて日本を攻撃する)」が「鷹司関白の達文のこと、御製のことを裏切るわけにはいかない」と思っており、「自分の死が浪士組の横浜焼き討ちをとどめる唯一の方法である」と、独りで出かけたのだというのです。八郎は、攘夷戦争を本気で考えていたわけでなく、幕府「内潰の起爆剤として攘夷をとなえ」、回天を起こそうとしていた・・・横浜襲撃も方便だったというわけです。八郎が若い頃に使っていた号に「木鶏(「鶏」はホントは旧字です)」というのがあるそうですが、八郎の行動は木鶏の精神に沿ったものであり、「木の鶏は虚心無我、天下に恐れるものは無い。選ぶ道は木鶏の如く黙って死んでいくことである。八郎の心事はそのように決したのではなかろうか」としています。

もし、そうなら、上に述べたような不思議な行動は、実際に遺書・辞世だったということになります。

みなさんは、どのように思われるでしょうか?(これからのんびり探究していきたいと思います^^)

<参考>『史談会速記録』、『修補殉難録稿』、『清河八郎』(2002.5.29)

関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3 ■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」@幕末館■テーマ別文久3年:「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」@幕末館

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