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1. 検証・御陵衛士(1)尊王派田中寅三を伊東が見殺し?
慶応3年4月15日、前夜、新選組を脱走した田中寅三が寺町の本満寺に潜伏しているのが露見して、切腹させられました。(『菱草年録』)

田中は品行方正だったが過激な攘夷説を唱えたため嫌疑をこうむって切腹させられたともいいます。27歳でした。(西村兼文『新撰組始末記』)

★田中寅三の辞世

田中は辞世を二句残していて、『菱草年録』、『新撰組始末記』、『殉難全集』などにも記録されています。田中自体の小史はほとんど伝わっていませんが、その死によって人の記憶に残ることになったのだといえます。

いづかたも吹ば吹せよしこの風 高天原はまさに吹くまじ (しこの風=『醜』の風=新選組の威勢という意味)

四方山の花咲きみたる時なれは 萩もさくさく武蔵のまでも (萩=長州が武蔵野=徳川を凌駕するという意味)


挑発的な辞世を読み、無念な思いと新選組への憎しみを残して亡くなった田中の墓所は光縁寺にあります。(光縁寺は田中を始め、いわば新選組に殺された人が多く眠る場所ですが、記帳ノートに「新選組すてき!」みたいな書き込みをよくみかけます。近藤や土方の墓所に書くならともかく・・・すこしは、光縁寺に眠る人々、彼らを悼みにくる人たちの気持ちを思いやってほしいな〜と思うのですが)

★検証

さて、とある新選組本の解説に、「田中寅三は過激な尊攘家だったというところから、隊を去って勤皇方へ走った伊東甲子太郎らに接触をはかろうとしたものと思われる。・・・伊東はみずからの立場を守るために(伊東一派である)田中の受けいれを拒絶したのだろう。見殺しにされたかたちの田中は翌日、新選組の追っ手によって屯所に連れ戻され、隊規違反のかどで正午に切腹して果てる」とあります。さらに、別のところでは、茨木らの横死事件について「先の田中寅三の場合と同様に佐野七五三之助らの受けいれを拒絶した」と断定しています(ちなみに佐野らを拒絶したというのは史実と異なっていると思います)。別の本でもやはり、「田中の場合と同様、」と最初から断定しているものをみかけます。伊東が田中を新選組に売ったと断定(断定調推測だったかも?)してある解説もみかけたことがあります。ところが、これらの根拠となる史料は(田中が伊東に接触しようとしたことを示すものすら)挙げられていません。実は、そのような史資料はみあたらないんです。

もちろん、史資料がないからといってその事実がなかったとは限りません。田中が伊東らの離脱に影響を受けた可能性もないとはいえないと思います。しかし、一方、衛士の同志であったとか、田中が脱走前後に伊東と接触したとはとても断定はできないはずです(小説ならともかく)。主な理由は
  1. 田中はその辞世からも西村兼文の記憶に強く残っているようだが(『新選組始末記』『殉難全集』、伊東らと親しく、佐野らの横死した経緯については詳しく書き残している西村が、田中と伊東らの関係について記していない。
  2. 衛士生き残りも佐野らをはじめ横死した同志についていろいろ語っているが田中の件についてはなにも語っていない
  3. 衛士生き残りが伊東らを光縁寺から改葬したときに佐野らも同志として改葬したが、田中はそのまま光縁寺に残されている。
少なくとも、伊東が自己本位に同志を見殺しにしたかのような記述(伊東らが勤王方に「走った」という表現自体、伊東に否定的な観方を表してますよね;;・・・そもそも「勤皇方に走った」ということ自体、断定できるような根拠がないと思うのですけど)や、伊東が田中のことを密告したという記述は、まったく客観的根拠がない、単なる憶測といえるのではないでしょうか。

00/5/18

<参考>『志士詩歌集』(小学館)、『新選組史料集コンパクト版』・『新選組日誌上』収録の関連史料(新人物往来社)

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