2. 御陵衛士(2)同志の会津藩邸横死事件-1 |
■ 新選組幕臣取立てと尊王派隊士慶応3年6月10日、新選組が総員幕臣にとりたてるとの通知がありました。新選組局長の近藤が見廻組与頭格、副長の土方が肝煎格、沖田以下の副長助勤6名が見廻組格、調役6名が見廻組並、その他の隊士は見廻組御抱御雇入という待遇での取りたてです。(『丁卯雑拾録』)さて、この幕臣取りたては議論を呼びました。とりわけ強硬だったのは調役の茨木司を含む10名です。「(武士なので)二君につかえずというきもちをもち、浪士の身分で志を立てて今日まで国家につくしてきたのに幕臣となり栄誉をたまわるのは旧君に申し訳がたたない」というのです。彼らのうち茨木、佐野七五三助、富川十郎、中村五郎は、さきに新選組から分離した御陵衛士伊東甲子太郎らの同志でした。彼らは伊東らの分離のとき同行できず、隊に残っていたのです。 伊東や茨木らと親しかった西本願寺侍臣の西村兼文が著した『新撰組始末記』によると、茨木らは伊東らの屯所とする長円寺に向かい、同盟を求めましたが、伊東は「今、こちらに来るのは新選組の恨みをかうことになり、時機がよくない。もうすこし時勢を待ってくれ(隊へ戻れ)」と彼らを説得したそうです。しかし、彼らは近藤の悪行をにくみ、帰隊をのぞまなかったので、伊東もこまりはて、普通の論では除隊は許されないだろうと考え、会津藩に脱退を願えばよいのではないかと策を授けました。 伊東らの分離のときも会津藩の承諾を得ていたので、同様に穏便な方法で新選組を分離できるとみたのではないでしょうか。また、新選組と御陵衛士には隊士の相互編入を禁じる約定があったともいいます。 |
■ 検証『新選組日誌』(新人物往来社)では、佐野らの事件を、こちらでも参考にしている『新撰組始末記』を引用しながら解説しています。疑問に思う部分を引用します。赤で示した部分が『始末記』引用部分で、青で示した<解説>以下がコメントとなっています。 「同月10日、十人は長円寺に到り同盟を求むるに、伊東これを制諭し、今各当寺にくること宜しからず。彼ら必定怨恨を求むるなり。今しばらく時勢を待たれよと宥説なすといえども、近藤らの暴悪を憎み帰隊を好まず、承引せざれば、伊東ももてあまし---- <解説> 伊東甲子太郎は新選組とかわした移籍を禁ずる約定を守るため、先の田中寅三の場合と同様に佐野七五三助らの受け入れを拒絶した。なかでも佐野は江戸以来の同志である。それを切り捨ててまで、伊東は新選組との良好な関係を維持しようとした」 みなさんはどう受け止められますか?いかにも伊東が迷惑がって佐野らを突き放した冷酷非常な人物なように取れますよね。このページの最初の部分(ヒロの説明)を読んだ後では「あれ?」と思われませんでしょうか。『新選組日誌』では事実のように断定しているけれど、根拠として挙げている西村の『始末記』では伊東は佐野らを(田中も)切り捨ててはいないんです。 実は『新選組日誌』に引用されている『始末記』の文は途中で切れています。『新選組日誌』で省略された続きの部分はこうです。 「(伊東は)普通の論にては決して(近藤は佐野らを)除隊はさすまじと思惟し、この上は会藩に拠て暇を乞はんと計画するに、その日、近藤は見廻組頭取、土方は頭取格、その余は皆見廻組に任せられ、一統は旗下の士に属せり」 最後まできちんと引用すれば、印象はかわって、伊東が佐野らを切り捨てたのではないことがわかりますよね。伊東は(脱走しての)御陵衛士との合流はまずいが会津藩と交渉して除隊をさせてもらった上なら問題ないだろうと提案しているのです。実際、13日になって佐野らは会津藩に上書を出しています。また、14日朝、策を求めて伊東を訪ねた佐野らを案じて、伊東は「会津藩邸に行かせるのは不安だ。時勢を待って身を隠してはどうか」と勧めたとされていますが、このくだりも『新選組日誌』では省略されています。 もちろん、なにをもって「切り捨てた」とするかは解釈の差なのかもしれません。でも、それでもやはり、引用を「伊東ももてあまし」と文の途中で切らず、その後の伊東の策や伊東が佐野らを案じる様子も紹介した上で結論を導いてほしかった・・・そう思うのです。 00/5/18 <参考>『志士詩歌集』(小学館)、『新選組史料集コンパクト版』・『新選組日誌上』収録の関連史料(新人物往来社) *反論は上記資料をすべて熟読した上で居酒屋ばくまつまでお願いします |