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伊東甲子太郎の同時代評判


悪人イメージが強い伊東甲子太郎ですが、同時代的には、彼を直接知るひと知らない人、口をそろえていうのが、「人物(人柄がすぐれている)」。いったいどこをどう間違ってあんなイメージが定着しちゃったのでしょうか^^;。
「七条油小路において元新選組、禁裏御陵相勤めおり候者四人殺害致され・・・一人は樫次郎とかにていたって人物に候由」

(『丁卯雑拾録』)

<ヒロ>京都の町人が記録した油小路事件です。同志・友人らの史談等で「できた人」「人物もよし」だと評される伊東甲子太郎ですが、慶応3年当時、一般の人にまで「いたって人物」という噂がきこえてい,ました。なお、「かしじろう」は「かしたろう」の誤記ですが、これによっても「甲子」は「きね」ではなく「かし」と読むこともわかります。
「伊東甲子太郎という人は書見もあり、なかなかできた人である」

(元御陵衛士・加納通弘(加納鷲尾)談 『史談会速記録』104)

<ヒロ>書見=学問。「伊東甲子太郎というは」「なかなかできた」・・・。伊東を回想する衛士に共通していえることが、伊東を先生扱いはしていないこと。「伊東先生」という表現はみたことがありません。伊東自身も衛士たちを指して「同志」「友だち」「親しき友」と書き残しています。伊東は御陵衛士にとって一種のカリスマ的トップでしたが、その間柄は上下関係ではなく、志を同じくする仲間なんですよね。当時も「先生」と呼ばれてなかったのではと想像しています。リーダーでありながら、こういう偉ぶらないところも「できた人」と呼ばれた所以ではと思います。
「伊東甲子太郎武明は、撃剣に長じ、和学も嗜み、歌道にも心を寄せ、温和にして文武を兼ねたる壮士なり」

「摂津(注:伊東の御陵衛士時代の名前)は天性公明正大の議論を以て、邪心を包含する者ならねば・・・」


(伊東をよく知る元西本願寺侍臣・西村兼文 「新撰組(壬生浪士)始末記」)
「・・・浅野薫が私に大阪で密かに会いました。それで(彼が言うには)今度東京から伊東甲子太郎という者が同志を十四、五人連れて来たが、これはいたって人物もよし、近藤ごとき者でないからして、共にこれは謀るべき人物であるから・・・」

(元御陵衛士・阿部隆明(阿部十郎)談 『史談会速記録』83)

<ヒロ>阿部は、池田屋事件の前に、隊内粛正を繰り返す近藤に反発して他の同志たちとともに脱走したが、隊に残留していた浅野から伊東の評判を聞いて再加盟したとしています。前後の文脈から、阿部が、伊東は対立する者を粛清するタイプの人間ではなかったとみなしていることもわかると思います。ちなみに、伊東は剣の遣い手だったはずですが、残された記録から知りうる限りでは、上京前・新選組・御陵衛士時代を通じて、人を斬ったのは暗殺者への反撃の一太刀だけだったようです。伊東にとって、剣の使用は、最後の最後までとっておくべきものだったのかもしれません。また、伊東は、最終的には、武力倒幕ではなく、公議を基本とする王政復古を目指していましたが、そこにも、伊東が問題解決にあたって、武力・暴力ではなく、まず話合いを重視していた姿勢が窺えるのではと思います(関連「大政奉還後の新政府基本政策(綱領)」)
「(伊東が自分に)云ふ、我の新選組に入るや素と尊攘の志を貫徹せんと欲するが為なり。然るに近藤勇土方歳三等の為す所不義を逞し、惨暴を極む。我屡之に忠告するも用ひず、故に我徒数人と分離し別に為す所あらんとす」

(伊東と交友のあった水口尊王派城多菫の回顧録「昨夢記」←新選組本等では原文は未発表だと思います。無断転載しないでネ)

<ヒロ>城多が慶応2年頃に伊東と出会ったときを回想している部分です。後年の記録ですし、伊東自身が語ったそのままの言葉かどうかはわかりません。伊東が新選組の「不義」だけでなく「惨暴」を厭っていたと回想しているところが興味深いですよね。上の阿部の回想と共通するものを感じます。
「京都にいる間に水戸人として今でも印象に残っているのは伊東甲子太郎」

(元陸援隊隊士・田中光顕の晩年の談話『水戸幕末風雲録』)
「甲子太郎は学問もあり、武術もすぐれ猛烈な勤王思想をいだいておった点は、かの羽藩の傑士清河八郎と似通った型」

(元新選組永倉新八の実歴談をもとにした新聞連載の読みもの『新撰組顛末記』)

<ヒロ>『顛末記』なので、永倉自身が語った言葉なのか、記者が脚色・創作して書いたものなのか不明。よく間違える人がいるようですけれど、勤王=討幕(武力倒幕のこと)じゃないことに注意しましょう^^。また、伊東は残された建白書(こちら)から、討幕を方針としていないことも推し量れるんですヨ。
「丈のすらりとした眼の涼しい非常な美男で、なかなかよく使った。この人の下段白眼は同流にあっても、評判の構えで、派手な剣術であった」

「伊東は名だたる美男で、・・・紋付きの黒縮緬をつけた姿は、役者のようだった」

(元御陵衛士・篠原泰之進遺談 とされる話 『新選組始末記』)

<ヒロ>『新選組始末記』の記述もどこまで史実でどこまで創作なのかは不明ですが・・・・・・。ちなみに、北辰一刀流を学んだことのある方に「白眼」はなにかと質問したところ、「そんなのはない」と言われました。「青眼」の間違い?また、「派手な剣術」について剣道をやっている複数の方にうかがうと、「残心が大きいのでは」「かけ声や踏み鳴らす音が大きいのでは」などの答えがかえってきました。外見については実家の鈴木家にやさしげな面立ちの肖像画が残っています(こちら)。(管理人は大河は見ていませんが、NHKの番組で、肖像画を前にした伊東役の谷原章介さんに対して、アナウンサーが「似てますね」とコメントしてました。さて、どうでしょうか・・・・・・)。
(1999.9.18、2004.6.15, 9.12, 9.23)


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