HP「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」

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B-3 御陵衛士の建白書(3)慶応3年10月中旬以降
新政府のとるべき基本政策(綱領)

(公卿の政権・一和同心・国内皆兵・大開国大強国等)

伊東甲子太郎は、大政奉還が行われた慶応3年10月中旬以降(推定)、議奏・山陵掛の柳原光愛を通して、朝廷に、新政府のとるべき基本政策(綱領)の建白を行っています。建白書は32条から成りますが、(1)公卿を政権に揃えること、(2)一和同心の基本決定(そのために公議・衆議を尽す)、(3)国内皆兵の三策を急務とし、さらに大開国大強国を国是とすることを求めています(「大開国大強国」は積極開国による富国強兵策。「大開国」は外国の圧力による開国ではなく、日本の国益を考え、開国通商の利点をいかす積極開国。それにより「大強国」をつくろうということ)。また、新政府の政権基盤として五畿内を朝廷直轄領とし、そこから陸海軍を取りたてて朝廷直属の兵力(親兵)を整備するというユニークな提案をしています(孝明天皇の攘夷の遺志を継承して摂海は鎖港)。そこには、徳川家に代って別の大名が武力を背景に実権を握ったのでは王政復古の意味がないという考えが基底にあります。ただし、王政復古の過程においては公議・衆議(話合い)による挙国一致体制づくりを重要視しており、また外交については徳川家臣を参加させることを考えていますので、討幕(=武力倒幕)派だとはいえません。むしろ公議政体派に近い思想です。(伊東が薩摩に寝返った等の俗説は間違いです)このほか、伊東は養豚牧畜を論じて産業開発を急務と説いたともいいますが、残念ながら建白書類が残されていないようです。

油小路事件(こちら)で暗殺された伊東の懐中に、この建白とほぼ同じ内容の書状(準備中)が残されていました(暗殺当日、伊東が近藤勇と国事の談合に出掛けたという説の裏づけとなるものでしょう)。管理人は、伊東は、幕権回復派で大政奉還には不満の近藤勇を、建白書に示された考えをもって、説得しようとしていたのではと推測しています(こちら)。また、伊東の死後、薩摩藩の吉井幸輔が越前藩の中根靱負に、「甲子太郎暗殺なども惜しむべき事にて、彼は頗る有志にて、先達の建白などは、一々尤も至極同論の事ども」と語っていますが、この建白を指すのだろうと考えています(こちら)

ps.幕末思想研究者で横井小楠等の著書のある松浦玲氏は、伊東のこの建白を「大開国大強国」意見書とし、その政治構想を「公卿政権論」と名づけ、伊東が公卿たちのブレインとなり、下働きを務めるつもりだったのだろうと推測。「実現性はともかく、この構想は坂本龍馬の構想を遥かに上回るユニークなものである」と高く評価。伊東・坂本の「二つの殺人に大政奉還の持つ多様な可能性を圧殺するという共通性があるということは、指摘しておいてもよいのではないか」とも(こちら)

(2004.5.2、6.6、12.16)

その1/その2/その3
管理人による意訳を掲載しています。番号は、便宜上、管理人がつけています。左欄が紫(2〜5)は基本構想です。要約はこちら
建白書各条項(意訳by管理人) 管理人こめんと
野夫薄劣の輩(伊東のこと)が、浅慮を顧みず、文辞をも選ばずに週休に献言するのは、「絶世の勲を立つる者は衆意を侮らず、至大の功を成す者は非常を顧みず」と先哲の格言にもあるからで、天下海外の国までの耳目を一新すべき大英断を神速に下されたく、懇祷するものである。 建白書の前書き。
大政奉還を請けた朝廷に国内外の耳目を一新すべき決断を下さねばならないとする。その具体的内容が以下に続く。
「絶世の・・・」の格言は探し中。
1 一、数百年後の今日、初めて政権が朝廷に帰したことは「万世不抜の一大美事」であり、忠臣は重い誅罰を恐れず行動する機会である。大英断は「万死を避けさせられず」、「誠忠の御尽力」があるよう願う。 まず、大政奉還賛成派であるという基本姿勢を表明(この時期、慶喜の行った大政奉還をめぐっては様々な考えがあった)。では、その大政奉還を受けてどうすべきか・・・
2 一、「正義純良の」公卿を役に揃わせるよう決定することが急務である。 まず、役職に公卿を揃えること、つまり、公卿中心の政権づくり。名実ともに王政復古をということ。(伊東の構想には、政権が再び武家に政権に帰する可能性の排除が根底にある)
3 一、国内の上下が一つに和して、同心協力の基本を決定することが急務である。 挙国一致体制をということ。国内上下の一和同心協力を一つにした「一和同心(同心一和)」はこの後、この建白書によく使われるフレーズ。これは孝明天皇の「皇国一和」「万民一同一心」と同じ路線。「一和同心」を基本とする穏健な王政復古派。具体的には、公議・衆議をつくすことを提言している。討幕派(=武力倒幕派)じゃないんですよ〜)。
4 一、国内皆兵によって国難にあたるよう決定することが急務である。 原文は「海内皆兵」。具体的事項は16以降参照。
5 一、国是、大基本、ともに外国を以て大眼目とすることが専要である。 開国・鎖国は衆議に任せるという基本方針なので、ここでは外交が眼目だとするだけだが、実は伊東は大開国論。その主張は15以降に出てくる。
6 一、摂海の開港は中止し、外国船の停泊は厳禁とすること。そうでなくては王政復古の甲斐が無く、天下忠勇の士民が失望し、一和の基本が立たない。 摂海=大坂湾。中止理由は、故・孝明天皇が反対していたこと、開港は武家の圧力でやむをえず勅許となったこととしている。
7 一、五畿内一円は御領と定める。山城・大和のニ州は朝廷・宮家・摂家・公卿に配当し、摂津・河内・和泉の三州をもって海陸軍を取りたてることが肝要である。そうでなくては朝廷の武威が立たない。かつて明智光秀のような重罪者の意見も兵力が背景にあれば聞き入れたことがあった。当今では、先帝が拒絶していた兵庫開港をやむをえず勅許になったことも、皆、武力不足の弊害である。封建の世であり、「海外万国の大難」のある折柄、十分な武力がなくては叡慮が貫徹しがたいことが数々でてくるかもしれず、再び「王綱紐を解く」事態になることは必然で、(政権が朝廷に帰したことが)永世不抜の大業とは申し難い。 ・日本のうち、五畿を朝廷直轄領)という特別区とし、それ以外(七道)と分けて考えるというユニークな構想。五畿・七道は大和朝廷の律令制度の考え。

・朝廷領から海陸の親兵を創設。朝廷が兵権をもつことの重要性を説く。徳川家に代って毛利家や島津家が政権を握ることは彼の構想にない。

・海陸軍を組織する三州のうち「摂津」(今の大坂市や兵庫南東部)は淀川を含む重要地。伊東が衛士時代に名乗った名前は「摂津」(一説に朝廷より授かったともいう)という。この五畿の摂津からとったもので、伊東は攝津を最重視していたのでは?

・「王綱紐を解く」は慶喜の大政奉還書にある表現。
8 一、制度・法則は、往古の律令があるが、世態に合わせて旧弊を一新し、一和同心を眼目とすることが重要である。 王政復古とはいっても、古来の律令を踏襲するのではなく、新たな制度・法令を作ることを主張。
9 一、毛利氏は元々誠忠の余憤によって今日の立場となっており、官位を復旧し、これまで通り誠忠の尽力をするよう沙汰を下すこと。 長州藩主父子の官位復旧を主張。
10 一、大宰府在留の公卿にも同様の沙汰を下すこと。 大宰府の激派公卿の官位復旧を主張。
11 一、勤皇の余憤によって法を犯して徳川氏や諸藩の獄にある「正義の士民」を許すよう沙汰を下すこと。 その他政治犯の大赦。慶応3年時に勤「皇」というのは珍しいかも?
12 一、五畿内は洋風に等しい風俗は厳禁し、皇国風を残すこと。ただし、武器兵仗は武臣の衆議に任せること。 伊東の構想では五畿内は朝廷領という特別区であり、風俗も外国嫌いの朝廷に配慮した内容。武器は武臣の衆議に任せる=西洋化が念頭にある。
13 一、天下の公議は尽すこと こんなに、はっきり、公議(話合い)の重要性を主張しているのに、なぜ武力倒幕派だといわれるのか・・・(ブツブツ)。なお、公議衆議による挙国一致の政体づくりは文久3年時から政治議題にのぼっています→「参与会議へ」@幕末館)。
14 一、攘夷は、先帝(孝明天皇)の遺志であり、布告もあったので、攘夷の人心を奮起すればこの上ないことである。しかし、最近の人心を推察すれば、一和の基本、国内皆兵、強国の大国是が立った後でなくてはどうされるのか。衆評をお聞き取りになること(こそ)が肝要である。 孝明天皇の遺志や朝廷内の攘夷派に配慮しつつ・・・↓
15 一、五畿内の外における、攘夷閉鎖の儀は一大事件なので、衆議によって決すること

ただし、衆議の際は必然的に議論が沸騰するだろう。もとより、一和同一が眼目・基本・専要であり、衆評に帰着することは勿論だが、最近の世界の形勢・皇国の世態に鑑みれば、大開国大強国の国是が肝要だと存じる。
・朝廷領である五畿内(特別区)以外は、伊東は大開国を方針とする。大開国という言葉は、外国に迫られたからの開国ではなく、日本の国益を考え、開国通商の利点を生かす積極開国のこと。だから強国と結びつき、大開国大強国となる。管理人の好きな横井小楠の路線^^。「大開国」はこれまでの開国とは違うのだから、いわゆる不平等条約も見直さなくては大開国にはならない。関税自主権の復活・治外法権の廃止なども大開国の中に入っているはず^^。(「大開国」については幕末館のテーマ別文久2年「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」へ)
(2004.5.2、6.6、6.8)

その1/その2/その3

出典:「伯父伊東甲子太郎」(私家版)収録の建白書。同書では建白書は慶応3年8月に提出されたとしており、多くの新選組本でもそれを踏襲していますが、建白書の(1)(32)などから大政奉還後に提出されたものと判断しています。

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