藤堂平助のプロファイル |
姓 名 |
藤堂平助(とうどうへいすけ)宣虎(よしとら)。 御陵衛士時代の変名は南部与七郎。(新選組の壬生の屯所の近くに住まいを構えていた郷士南部家の息子の名前が与七郎だったという) |
誕 生 |
天保15年(1844) −江戸で誕生。津藩藤堂和泉守ご落胤との噂があった。 |
身 分 |
府内浪人。新選組では副長助勤/八番隊組長。伊東甲子太郎とともに新選組を離脱して御陵衛士に。 |
武 芸 |
北辰一刀流伊東甲子太郎の門弟・寄り弟子。千葉周作道場目録との異説もある。剣が達者との証言が残っている。近藤勇の内弟子と書いてある新選組本があるが根拠の提示はみたことがない。文久3年3月に近藤勇が江戸に送った書簡で「文武場を建てることになったので、至急、剣術道具や竹刀、稽古袴などを送ってくれ」と依頼しているが、その書簡で剣術道具等を送ってくれと依頼した者は近藤、土方、井上、山南、沖田、永倉の合計6名。剣術道具を置いていない藤堂は内弟子ではないだろう。(「浪士文久報国記事」によれば、藤堂は試衛館に稽古にはきていた節はある) |
学問 | 学問もあった。「文字がある」、「智勇ともに衆に秀でる」との証言が残っている。 |
性格 | 一説に、江戸っ子で、あまり品行は良くないが、しっかりした人物だったという。常にまっさきに闘いに飛び込む勇敢な性格で、池田屋事件当時にはすでに「魁先生」と評判になっていた。 |
外見 | 小柄な美男子であったと伝わる。 |
主義 | 尊王攘夷はこの時代の基本だが、藤堂は朝廷第一志向だったようだ。伊東甲子太郎に「新選組は勤王だから(この場合は朝廷に尽すという意味)」と加盟を勧めたというし、尽忠報国の浪士集団として出発した新選組が幕権強化傾向を強めたことに危機を感じ、本来の姿に戻すために勧誘したともいう(御陵衛士誕生の始まり)。また、最初は近藤の「四天王」の一人に数えられていたが、御陵衛士時代には「伊東の左右の手」となって活動に打ち込んだといわれる。その伊東の政治思想はこちら。 |
血風録 | 20歳で上洛以降、藤堂が参加した(とされる)主な事件は以下のとおり(詳細は「事件簿」をご覧ください)。 【文久3年(1863年)】|清河八郎暗殺未遂|筆頭局長芹沢鴨暗殺|長州の間者襲撃| 【元治元年(1864年)】|池田屋事件|禁門の変| 【元治2年/慶応元年(1865年)】 不詳 【慶応2年(1866年)】 不詳 【慶応3年(1867年)】|油小路の闘い| |
死 没 |
慶応3年11月18日(1867年12月13日)−七条油小路で新選組に暗殺された師・伊東摂津(甲子太郎)の遺骸を同志とともに引取りに行き、待ち伏せの新選組に斬りかかられて抜き合う間もなく死亡。享年24歳。 遺骸は御陵衛士残党おびきだしのため、数日間囮として放置された後、新選組の手によって光縁寺に埋葬。新選組が京都を去った慶応4年3月に、生き残り同志の手により、東山戒光寺(孝明天皇御陵のある泉涌寺の塔頭)に改葬された。 |
和歌 | 「益荒男の七世かけて誓いてし 言葉たがわじ大君のため」(『近世殉難一人一首伝』城兼文編)←この歌を坂本龍馬を悼む歌と書いてある解説本があるが、間違い。 |
女 性 |
恋人に関する逸話は残っていない。「勤王芸者」君尾を助けたという真偽不明の話はある。 |
<参考資料>
「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」 、「泰林親日記」、『史談会速記録』
『新撰組顛末記』、『新選組始末記』、
『新選組遺聞』、「岳父鈴木三樹三郎・伯父伊東甲子太郎」、
『新選組日誌』、『新選組隊士録』、『新選組史料集コンパクト版』、『新選組戦場日記』
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