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HP「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」

御陵衛士頭取 伊東甲子太郎の基本データ


伊東甲子太郎(いとう かしたろう)武明。 生涯に3度名を変えている。鈴木大蔵→伊東大蔵(伊東道場後継時に改名)→伊東甲子太郎(上京前後に改名)→伊東摂津(御陵衛士時代)。変名、宇田兵衛(水戸人)。 *「きねたろう」と読むのは間違い
誠斎(戒光寺墓碑に刻まれている。生前から使っていたものではないかと思う)。管理人は、この「誠」は朝廷(=皇国)への「誠忠」及び「至誠」を表しているのではと推測している。朝廷への「誠忠」は伊東の学んだ水戸学の基本。「誠」といえば伊東を殺害した新選組の専売特許のようになっているが、初期の筆頭局長芹沢鴨も水戸派であったし、当時の「誠」も朝廷(=皇国)に対するものだったと思われる。時代の流れ、また隊内の権力闘争の結果としての「誠」の変質が、伊東の「誠」と合わなくなり、それが伊東の新選組の離脱、そして油小路事件につながったのではと愚考中。(覚書にまとめる予定)

天保6年(1835)常陸国志筑本堂家(旗本)郷目付鈴木専右衛門忠明の長男として志筑で誕生。しかし、父専右衛門は家老横手某と対立して閉門蟄居・脱藩したという。伊東は母方の里に身を寄せたが、志を立てて水戸で学問と剣を修行したという。誕生は天保7年説もある。

上京前は本所深川佐賀町/中町の伊東道場道場主。新選組においては参謀。孝明天皇の御陵衛士では頭取。
※元治1年、深川中町に戸田銀次郎家来の伊東甲子太郎が居住していたとする資料(「播磨池田新宮家記録」)がある。ただし、水戸藩や戸田家の資料ではない(地籍簿のようなもの)。居住者に確認したのか、周りに確認したのかも不明。調査時期も不明。「甲子太郎」とあることから、8月頃以降である可能性あり。ちなみに元治1年8月頃、戸田は水戸詰め。「家来」の正確な意味は不明だが、戸田と行動を同じにしておらず、他の資料に戸田との関わりが出てこないことから、戸田の江戸屋敷に剣術指南にいっていた程度の関わりではないかと思う。

剣の達人。一般に神道無念流(水戸・金子健四郎道場)→北辰一刀流(江戸深川・伊東精一道場)とされる。伊東の姉ことの大正7年の書簡によれば、13歳で水戸に出て藤沢小路の金子(=当時水戸藩剣術師範の金子健四郎・神道無念流)に学び、金子が御用で江戸に出たときに伊東も江戸に出たようだ。その後、麹町の杉山某(金子の師匠で志筑藩剣術師範も務めた杉山東七郎か)に学び、伊東道場に入門したのはその後だという。神道無念流はどこまで極めたか不明だが、北辰一刀流は免許皆伝。最後の師匠の伊東没後、遺言により、娘うめの婿となり道場を継ぐ。道場は小旗本並みの生活が成り立つくらいの人気だったという。下段青眼が評判で、はでな剣だったという。塾頭は内海次郎中西登藤堂平助も門弟であった(藤堂が近藤勇の内弟子という記述を時々みかけるが、根拠はないのでご注意を)し、加納鷲尾も伊東を「師匠同様」にしていたという。

学識・教養ともに深かった。水戸学・国学を修めており、儒学については10代で漢籍塾で教えたこともある。風流人でもあり、和歌も多数残している。和歌には「真心」が多く歌われており、本居宣長の影響ではないかと推測される。慶応元年夏の新選組編成では筆頭文学師範。←この場合の文学は学問だと思われる。

「人物(=人柄がすぐれている・人格者)」という評判が複数伝わる。また、大変穏やかで敏達、梗概義侠に富み、邪心がなく、議論は公明正大だったともいう。⇒「伊東の評判」。手記・和歌で、伊東は衛士たちを「同志」「友」「誓いある人」と呼んでおり、リーダーでありながら偉ぶらない様子がうかがえる。

有名な美男子だったらしい。同志の遺談とされる話によれば、目元が涼しく、背が高くてすらりとしており、黒縮緬の羽織を着用した姿は役者のような男ぶりだったという。実家の鈴木家に上品な面立ちの絵姿が残っている(こちら)。ちなみに弟三樹三郎・妹須磨も美男・美女だったという家伝あり(こちら)。
思想 尊王攘夷(この時代の人共通)。具体的には王政・大開国大攘夷。(上京前後の伊東は水戸天狗党に心を寄せていたといわれることから、破約攘夷論だった可能性がある。当初から王政・大開国を志向していたかどうかは明確ではない。ちなみに、この時代のひとは、基本、尊王攘夷で、伊東を殺した新選組も成り立ちは尊王攘夷を標ぼうする浪士集団だった)

彼の政治活動は王政復古を目的とはするが、一和同心(同心協力・国内の一和)が眼目である穏健的なもので、公議・衆議を重視しており、討幕(武力倒幕)とはいえない伊東は内乱回避の重要性を度々訴えており、避戦派といってよい。

伊東は皇国という言葉を建白書で用いており、藩や幕府を超越した日本全体を視野にいれた政治体制をめざしていたことが伺える。その構想で頂点に立つのは天皇、中心となるのは朝廷(公卿)である。(同じ王政復古を目指していても、実質上は徳川幕府にかわって諸藩が政権を担うことを考えていた薩長の倒幕(討幕)派と、公卿を中心にした政権を構想しており、武家に再び大政を委任することを否定していた伊東とは方向性が違う。藩という有力な後ろ盾の草莽だからこその思想だともいえる。このへんの朝廷第一志向が、御陵衛士の拝命・戒光寺長老・公卿大原重徳との関係につながったのでは・・・)。また、最終的には彼の攘夷は原理主義的なものから脱皮した大開国大攘夷ともいえる「大開国論」であった。

伊東の構想の詳細については新政府構想に関する建白書を参照。また、天下の政治は公のものであり、幕府という「私」のものではないという議論や、大開国論については「テーマ別文久2年「国是決定:開国VS破約攘夷」@幕末館を参照。

なお、伊東を水戸藩出身者とひとくくりにして水戸尊王派と規定することには疑問を感じる。もちろん、伊東は水戸に遊学したこともあり、朝廷重視の姿勢は水戸学の影響を受けていることが推測される。しかし、水戸藩出身の激派のようにその行動原理に斉昭がいるわけではない。水戸の公子であった慶喜を主君筋としてみているわけでもない。天狗党の挙兵にも参加を自重しているし、在京水戸藩尊攘激派(本国寺党)との密接なつながりも、今のところ確認できない。何より、伊東が最終的にいきついた大開国論は水戸激派の破約攘夷論とは相容れないはず・・・。

伊東の思想についてはいつか別途整理する予定です。
血風録 剣の使い手である伊東だが、元治元年(1864年)末の上京前から新選組(約2年半)・御陵衛士(約半年)時代を通して、いまのところ人を斬ったという記録はみられない(生涯で人を斬ったのは暗殺者への反撃の一太刀だけだったのかもしれない)。伊東は、むしろ捕縛された志士や隊規違反を犯した隊士を助命した方である。彼は、もっぱら各地を探索・遊説して国事の議論を重ねた。(こんなところからも、武力/暴力に訴えるよりも、話し合いをという伊東の基本姿勢が反映されている気がします)
死没 慶応3年11月18日(1867年12月13日)夜−待ち伏せた新選組によって七条油小路にて暗殺される。享年数え33歳(32歳)。

この日、伊東は近藤勇に呼び出され(こちら)、出向いた帰路に暗殺された(こちら)。遺骸は御陵衛士をおびきおせる囮として放置され、引取りのため駆けつけた7名と待ち伏せの新選組多数が乱闘となった(油小路の闘い)。衛士は3名が討死。伊東と合わせた4名の遺骸は数日間、やはり囮として油小路に捨て置かれた(こちら)

その後、壬生・光縁寺に埋葬。新選組が京を去った後、衛士生き残りによって、孝明天皇御陵のある泉涌寺塔頭・戒光寺に改葬された。大正7年11月18日、勤王の事績が認められて朝廷から従5位を贈られ(贈位書写真)、昭和4年、靖国神社に合祀された。
家族 三樹三郎は実弟。父、志筑藩郷目付鈴木専右衛門忠明、母こよ。姉こと、妹よし(須磨)。ほかに夭逝した妹がいた。関連:「子孫の語る思い出ばなし」←三樹三郎の孫にあたる鈴木巌氏らの三樹・伊東・父忠明・母こよ・姉こと・妹須磨の思い出話。

●脱藩した父親は、その後、罪は許されたが復藩が許されず、近くまで戻って漢籍塾を開いた。嘉永5年に急死。伊東は18歳であった。

●京にいる伊東は故郷に残した母こよを案じて便りを欠かさなかった。母も伊東の絵姿に向かって朝夕健康を祈っていた。また、公卿大原重徳(明治新政府の参与)が伊東兄弟の勤王の志に感じ入り、二人を育てた母親に贈るようにと和歌を短冊に書いて渡したが、その短冊と兄弟連名の手紙が今も残されている。

●三樹三郎は兄思いの弟だったという。

●京での伊東の身を案じる妻うめは、国事の奔走をやめて帰ってきてほしいと思う一心で、伊東の母こよが大病という嘘の手紙を書いて伊東を呼び戻した。弟とともに急遽江戸に戻った伊東は事実を知って立腹。周りがとりなしたが、「いやしくも嘘はいけない」とうめを離縁したという。このときの伊東のやるせない気持ちを詠んだのではと思われる歌が2首残されている。ほかにも、家族(妻と母)を思うとみられる歌がいくつか残されている。(関連:『残しおく言の葉草』)

※妻みつ、娘えいとする資料(「播磨池田新宮家記録」がある。
女性 ●島原に愛した女性(元輪違屋の花香太夫とも)がいた。油小路事件の後、篠原・新井の妻とともに薩摩藩邸に潜伏中の同志篠原を訪ねている。この女性との間に男の子がいたという。また、辻まさという元祇園の芸者だったらしい愛人がいて、伊東を殺害した新選組を深く恨み、明治以後、よく墓参にきたという口伝が最後の屯所だった高台寺塔頭月真院に伝わっているという。まさが花香と同一人物(辻まさが花香の本名)であった可能性もあるだろうし、伊東がひいきにしていた芸者の一人だった可能性もあるだろう。

●伊東は、京都時代、恋の和歌を多数残している。花香を詠んだと思われる歌が多い。恋の歌のうちの数首:「国の為おつる涙のそのひまに見ゆるもゆかし君のおもかけ」「おのれのみ深くも思ひそめにけりうつろいやすき花の色香そ」「兼てよりあすある身とも思はねはいかてちきりを結ひ留むへき」「逢ふまてとせめて命のをしけれは恋こそ人の命なりけり」(関連:『残し置く言の葉草(2)恋の歌』)
手記
『残し置く言の葉草』←京都の悟庵が選んだ伊東の歌集。元治元年秋の上京時から慶応3年秋の和歌が約190首。伊東の行動・人柄を知ることができる重要な資料。「山南氏の割腹を弔て」4首も含まれている。小野圭次郎の「伯父伊東甲子太郎武明(『新選組覚書』)」、子母沢寛の『新選組遺聞』に収録されているが、原本と比較すると、原本通りではないことがわかる。【関連】「残しおく言の葉草

慶応2年(推定)8月4日付母こよへの兄弟連名の手紙こちら

『九州行道中記』←新選組参謀時代の慶応3年初頭の九州出張時に記したもの。【関連】「九州行道中記を読もう

*2004年9月刊行の『龍馬と新選組』に「(大原重徳宛)伊東書簡」が収録されているが、管理人は(1)伊東の書簡ではない、(2)(岩倉具視宛)香川敬三の書簡である可能性が高い、と考えています。(「覚書」「”新発見伊東書簡”に異論(1)」)
(1999.9.18、2004.1.1, 8.31, 9.23、2005.1.25)

(1)伊東の名前:「かしたろう」が正しい。油小路事件の風説書に「樫(かし)太郎」と書いたものが存在し、「かしたろう」と読むことがわかる。

(2)伊東の誕生年について、墓碑に刻まれた享年32歳から逆算すると天保7年になるが、伊東の実家である鈴木家の故老の証言や書類等によって天保6年生まれで享年は33歳であったと確認できるそうである(「伯父伊東甲子太郎」)。

★参考資料★
鈴木家の古文書、私家版「伯父伊東甲子太郎」、「新撰組(壬生浪士)始末記」(『野史台維新史料叢書』三十) 、「泰林親日記」(『新日乗纂輯』三、「昨夢記」、『史談会速記録』、『新選組始末記』、『新選組遺聞』

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衛士関連での前例が何件かあり、まいっていますのでヨロシクお願いします。

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