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藤堂平助と剣


藤堂は北辰一刀流で伊東の寄り弟子でした。目録ですが、剣の名手との評判があり、初期には近藤の「四天王」にも数えられていました。藤堂の足跡はあまり史料には残っていませんが、池田屋事件当時、既に「これまでの数数の騒動にもまっさきに飛び込んでいったため魁先生と呼ばれているらしい」との評判が立っており、記録には残らない出動が多々あったことは間違いありません。しかし、師の伊東が新選組に参加して以後、新選組で藤堂が剣をとったという記録・逸話は途絶えます。

御陵衛士殲滅をはかる新選組は、京洛一の剣士といわれる服部、そして北辰一刀流の藤堂に備えて、人数を多く繰り出したともいわれています(元桑名藩士・小山正武談)。藤堂は油小路では評判通りの猛勇を発揮したようですが、多勢に無勢で、全身に無数の傷を負って討死しました。
<藤堂の血風録>
(1)清河八郎暗殺未遂(文久3年3月):近藤・芹沢らと清河の暗殺を謀ったが未遂に終わった。
(2)会津候上覧試合(文久3年4月):剣術の部の第一試合に出て土方と対戦した。
(3)筆頭局長芹沢鴨暗殺(文久3年9月):一説によれば、土方・沖田・御蔵の4人で襲撃したという。
(4)長州間者殺害未遂(文久3年9月):長州の間者2名を沖田と襲撃するが逃走される。しかし、この説には疑問が残る。
(5)池田屋事件(元治元年6月):近藤ら合わせて10名で池田屋に踏み込む。額を割られて出血がひどく、リタイアする。
(6)油小路の闘い(慶応3年11月):暗殺された伊東の遺骸を同志6名と引取りに行き、待ち伏せの新選組数十名に襲撃される。四方を固められて逃げ場を失い、奮戦の末、討死。

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