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藤堂の事件簿 文久3年

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文久1
〜2頃?
藤堂平助(18,19歳?)、深川の伊東道場で修業(寄弟子ともいう)(『史』)。入門時期は、文久元年以前、先代時だった可能性もないとはいえない


藤堂、近藤道場に出入り。(藤堂が近藤の内弟子だった説は根拠なし。逆に文久3年3月付近藤書簡によれば、近藤道場に剣術道具を置いていなかった模様なので、内弟子や食客として住み込んでいたわけではなさそう)

文久2年
1/15-坂下門外の変(★)
2/11:将軍家茂、皇女和宮と結婚(★)
4/23:寺田屋事件(★)
6月:勅使大原重徳&島津久光の率兵東下。(★)
8/21:生麦事件。(★)
閏8.1:松平容保、京都守護職就任(★)
閏8.14宇都宮藩主戸田忠恕、山陵修補御用掛に
12.13:諸藩に攘夷を布告(★)

開国開城:「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題

文久3
(1863)
1/7:幕府、「一方の御固め」に「尽忠報国」浪士募集(★)
1/16:近藤勇、小島家から鎖帷子借用。この日以前に、浪士募集に応じることを決める・藤堂も同じか?

10/10:新選組局長近藤勇、一力茶屋で公武合体による攘夷を述べる
10/15:新選組、禄位辞退の上書を会津藩公用方に提出

12.22−春嶽、慶喜に幕習から脱却した「創業」を確認
12.30−朝廷、慶喜、春嶽、容保、宗城、容堂を参与に任命
2/6:藤堂(20歳)、浪士組一員として江戸を出立。浪士組は七番組編成で、一組を小頭2〜3人がまとめた。藤堂は山南・沖田・永倉・原田・土方・藤堂と共に芹沢鴨の組下。ほか、芹沢の同志の平山・野口・平間がいた。★清河派の石坂宗順は、後年、藤堂を土方と並べて*「悪者」*と回想。(石坂談『史談会速記録』)
2/23:藤堂、浪士組一員として入京。壬生村に分宿。夜、清河、浪士組の主だった者に朝廷への建白を提案 (★)
2/24:浪士組、朝廷に尊王攘夷の建白書提出 (藤堂も署名か?)
2/29:浪士組、東帰を議論 (★)(藤堂も参加か?)
3/3:攘夷のための浪士組東帰を命じる達文 (★)
3/10:藤堂、近藤ら17人と連署して会津藩に残留の嘆願書(★)
3/12頃?藤堂、清河八郎襲撃に参加?(★)
★守護職・松平容保から清河暗殺の内命があり、彼らは二手に分かれて待ち伏せした。芹沢・新見・山南・平山・藤堂・野口・平間の7名と、近藤・土方・沖田・永倉・井上・原田の6名である。芹沢組の前を清河が通りかかったが、同行の山岡がご朱印をもっていたため芹沢は斬るのを躊躇い見逃したという。(永倉新八の実歴談をもとにした読み物『新撰組顛末記』).

<ヒロ>近藤とともに上洛した7名のうち、芹沢派5名と同行したのは、山南・藤堂の2名である。芹沢組に配属されたメンバーは、後に、近藤との路線対立により、7名全員が暗殺・切腹・殺害・逃走という結果を迎えている。(永倉の記憶の割り振りが正しいと仮定して・・・、この振り分けは偶然なのか、それとも山南・藤堂は芹沢派となにか相通ずるものがあったのか・・・)。

3/13:清河ら浪士組本隊、京都出立

3/15:残留浪士(藤堂含む)会津藩お預かりとなる。幹部中芹沢系6名、近藤系8名。藤堂は副長助勤。(永倉「同志連名記」)(★)
4/10:残留浪士芹沢と近藤らの志の差が問題化/(★)
4/16:藤堂、守護職松平容保の御前稽古試合で土方歳三と対戦。(★)
4/17:残留浪士近藤の増長「水会利一存んの意図に」(★)
4/21:将軍警衛の壬生浪士下坂。藤堂も? (★)
8/18:藤堂禁門の政変に壬生浪士一員として出動
9/18:藤堂、芹沢鴨襲撃に参加?(★)
 筆頭局長の芹沢が泥酔して就寝中に4−5名に襲われて絶命。一派の平山も殺害され、平間は脱走する。当時は長州の仕業という噂が流れたという。12月には一派の残党、野口が切腹(一説に殺害される)。芹沢派は壊滅して、隊の実権は近藤・山南・土方が握った。

★土方・沖田・藤堂が、まず平山を斬り、次に屏風ごと芹沢を刀で突き刺した。(永倉 「浪士文久報国記事」)
★土方・沖田・藤堂・御蔵が近藤の命で襲撃した(『顛末記』)

<ヒロ>藤堂を襲撃メンバーに挙げているのは永倉の回想録/談だけである。永倉は襲撃の当事者ではなく、信憑性はあまりないだろう。

9/25:藤堂ら、長州の間者襲撃を断念。
長州が4人の間者を送り込んできた。
★25日の夜、藤堂は斎藤とともに祇園の一力茶屋にいる御蔵・荒木田を襲撃する手筈だった。永倉が同座しており、茶屋にも迷惑をかけるという理由から、翌日屯所で襲撃することに決めて引き上げた。(「浪士文久報国記事」
★25日の夜、永倉は御蔵・荒木田・松井・越後に誘われて祇園の池亀屋で飲んでいた。4名は永倉を暗殺する計画であった。巡邏中の沖田・藤堂・原田ら10名が心配して立寄った。永倉は隙を見せなかったので間者たちは彼を殺害できなかった。(「顛末記」)

9/26:藤堂、沖田総司とともに長州間者を襲撃?(★)
★前夜から外出中の越後・松井は、御蔵らの殺害を聞いてそのまま遁走した。(「浪士文久報国記事」)
★翌26日、御蔵・荒木田は永倉・斎藤ら3名が前川邸屯所で殺害した。同時に、沖田と藤堂は前川邸の別間にいた松井・越後を襲撃するが、ふすまを破って逃げられてしまった。(「顛末記」)
1999.9.18 (2004.10.27更新)

元治元年(1864)

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