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慶応3年★数え24歳 |
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1 | 1.2-泉湧寺に御陵を設営する布達 1.9-明治天皇即位 1.15−征長軍解兵決議。 1.22-西郷、四藩会議の実現のため、藩主父子らの上京を促すために京都出立 1.29−孝明天皇を泉涌寺の御陵へ埋葬 2.6−2.7 慶喜、仏公使ロッシュと会見。ロッシュ、六局構想(内閣制)を説く。また、郡県制を説いたとも。 2.11−容保、守護職辞任を書面提出 3.5−幕府、兵庫開港の勅許申請(公議なし) 3.19-朝廷、兵庫開港要請を却下 3.22-慶喜、開港要請の上書 3.25-28‐慶喜、四国代表を謁見。条約履行(開港)を確約 3.25-久光、7千の兵を率いて鹿児島出立(西郷も) 3.29-朝廷、開港要請を却下 4.8−容保、帰国を幕府に請う 4.12−久光・西郷、率兵入京。 4.15−新選組脱走隊士田中寅三切腹 4.19−新選組山崎、中山忠能訪問 5.1−山内容堂入京 5.13−第1回四侯会議(兵庫開港の勅許と長州処分) 5.14-四候、慶喜と会見。久光、長州藩主父子の官位復旧・幕府反正が先、全国会議の上で開港勅許と主張。容堂、王政復古を説く。また、官位復旧と開港勅許は同時にと主張。(四候の分裂) 5.24−慶喜兵庫開港と長州寛大の勅命獲得 5.29−。在京薩長藩士の討幕決行の議決定 |
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3 月 |
10 | 朝廷の武家伝秦より、伊東ら十数名、山陵奉行戸田大和守忠至配下御陵衛士を拝命。(山陵掛御用議奏柳原光愛からという説あり)(★) | |
20 | 伊東ら新選組分離(新選組屯所を出て)三条城安寺に泊まる(「九」)(★) このとき、藤堂は美濃に出張しており、後から合流したという(『編年雑録』など。合流時期は不明)。 <ヒロ> 藤堂(衛士)には、時美濃の侠客水野弥太郎と結んで農兵を組織する計画があったとされている。藤堂が美濃に出張していたとすれば、水野に計画をもちかけたのはこの時期だったのかもしれない。 ★藤堂は、美濃の国の大親分・水野弥太郎と手を組んで、農兵数百を組織し、さらに兵力を増加させようと、薩摩の大久保利通等と内談をした。この一件や伊東の建白書を朝廷に出したことを間者の斎藤から聞いた近藤は激怒し、御陵衛士殲滅を決意した。(西村兼文『新撰組(壬生浪士)始末記』) ★伊東は万一のときを考え、尊王侠客の水野弥太郎と結んで、いざというときには兵を出してもらう約束を得ており、金銭面でも助力を得ていた。(阿部隆明談『史談会速記録』90) なお、水野弥太郎は、佐幕派博徒で新選組の用を務めていたことがあるという。(永倉新八記『同志連名記』) |
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21 | 御陵衛士、五条東善立寺に移る(「九」) | ||
4 月 |
・ | 不明 | |
5 月 |
・ | 不明 | |
6 月 |
10 | 新選組総員幕臣取り立て決定。茨木・佐野・中村・富川、伊東を訪ねる。(本館【新選組総員幕臣取りたて】) | 6.9−後藤象二郎・坂本坂本入京。船中八策 6.16−京都土佐藩の藩論、大政奉還に。中川宮、容保の在京要請。島津候久光、山県狂介&品川弥二郎を引見。王政復古での両藩連合を伝言。 6.17−親藩会議(近藤、会藩公用局員大野英馬に会いにいったが親藩会議にでてるときいて飛び入り) 6.22−薩土盟約(大政奉還否定時の倒幕)−武田観柳斎殺害 6.24−近藤の建白書、玄関払い(正親町三条実愛) |
13 | 茨木・佐野・中村・富川ら10名、新選組脱退の嘆願書を会津候に提出。【佐野七五三助ら会津侯への上書提出】 | ||
14 | 早朝、伊東は茨木らと会って謀があるかもしれないと会津邸行きを止めるが、茨木らでかける。茨木・佐野・中村・富川は新選組により殺害される。自刃説もある。<詳しく>【佐野ら会津邸で横死】 | ||
? | 御陵衛士、高台寺塔中月真院に屯所を移す | ||
7 月 |
不明 (7/27伊東、陸援隊中岡慎太郎を訪問。) |
7.1−後藤、伊達に書簡(薩摩と会津の緊張) 7.3−大監察永井&後藤、会談 7.6−イカルス号水兵殺人事件 7.12−中川宮・慶喜、長州官位復旧なしを確認 7.13−容堂、大政奉還建白内意 7.27−陸援隊、白河に屯所 |
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8 月 |
8 | 伊東・斎藤・藤堂・三樹らの連署で柳原前光・板倉伊賀守に長州寛大処分の建白。伊東・新井、京都を出発して大宰府へ。 (4名以上の連署の史料をみかけたことがあるのですが、どれだったか失念してしまいました。探し中です) |
8.4−四侯への勅答(官位復旧→兵庫開港の拒否) 8.6−島津・伊達の抗議の建白書。慶喜、容保に在京を直々懇願。 8.14−在京薩摩、挙兵プランを長州の使者へ(対会津戦?)、幕府目付原市之進暗殺。大久保、芸藩辻から武力討幕の同意 8.19−薩長二藩出兵協定(大久保)。薩長芸三藩出兵決定 8.20−土佐藩主、大政奉還建白を指示 8.22−中川宮・慶喜、四卿&官位復旧問題で合意 9.6−島津備後率兵入京 9.7−西郷・小松・大久保・後藤会談(薩摩の変約の同意を求める‐建白書提出に同意を求める) 9.15−島津久光大阪を出発、薩摩へ帰国へ。大久保・品川・伊藤、長州へ。 9.20−永井、土佐参政後藤に建白書提出を促す(近藤も紹介される) 9.28−島津父子、倒幕否定の諭達を家老に(芸・長の出兵見合せ) |
9 月 |
不明 | ||
10 月 |
不明 中旬以降:伊東、議奏柳原光愛を通して朝廷に33か条からなる建言書を提出。(藤堂らが連署していたのかどうかは不明だが、総意の上のものだったろうことは想像できると思う) ★国家危急存亡の時に際し、国内の一和同心を基本とし、国民皆兵、および大開国大強国を国是とするもの。内治を整えて外患にあたるというものである。主な綱領は以下に要約するとおり。 |
10.3−後藤、老中板倉に大政奉還提出 10.4−後藤ら、会津藩と面会。大政奉還建白提出を通知。 10.5−大久保、中御門に討幕続行約束 10.6−大久保・品川、岩倉・中御門と会談(王政復古の詔勅と職制案) 10.8−大久保・西郷・小松、三藩会議。芸藩武力討幕に戻る。西郷・大久保、討幕の宣旨降下を請う趣意書を中山らに。 10.9−長州出兵延期の使者上洛。坂本、入京。陸援隊屯所訪問。 10.11−薩摩、即時挙兵の見合わせ。(薩土盟約への回帰) 10.13−慶喜、二条城に重臣召集。大政奉還の是非を諮問。官位復旧の宣旨。討幕・会津&桑名討伐の密勅が薩摩藩へ。。 10.14−大政奉還の奏上。討幕の密勅が長州へ 10.15−大政奉還受理。(岩倉をのぞく倒幕派公卿は満足) 10.16−岩倉、大久保に対して会津・桑名の薩土芸藩攻撃の動きを知らせる 10.17−久光の率兵上洛を促すために小松・西郷・大久保、出立。 10.18- 岩倉・中岡、薩摩屋敷へ(吉井・伊佐治) 10.21−討幕密勅の中止の沙汰書が中山から薩藩吉井へ。 10.22−慶勝、容保に守護職引退を勧告(会津は従わず)。日常業務8か条これまで通りの沙汰 10.24-慶喜、将軍職辞退の上表 10.26-外交・内政これまで通りの沙汰 |
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11 月 |
10 | 御陵衛士斎藤脱走、新選組に反復する(「秦林親日記」) | 11.8-春嶽、率兵せず入京/岩倉具視に洛中居住の勅許/土佐福岡、越前藩訪問。会津の大政奉還不同意を語る。 11.9-新選組隊士後藤大助ら、伏見奉行所与力を殺害。 11.10-慶喜、二条城で春嶽に謁見。政権返還は本懐であると告げる/越藩中根雪江、永井尚志訪問。会津の現況をただす。 11.11-尾張犬山藩家老、越前藩側用人に「邪魔」な会津藩は東帰させるべきと語る 11.12-新選組の「暴論」を恐れ、越・尾の参内延期の沙汰との風聞。 11.14-会津に薩土芸討伐の企てありとの噂 11.15-朝廷、慶喜に新政府組織案を諮問/永井尚志、「会津は専ら復権の主張と承り候」と危ぶむ。/会津藩公用人小野権之丞、幕権回復論を否定/大久保利通、入京 11.16-陸援隊への間者村山謙吉捕縛。 11.17-二条、慶喜・諸大名に太政官八省再興を諮問。慶喜、公議与論で決すべきと返答/中岡死亡 11.18-坂本・中岡の葬儀?/海援隊7人、新選組等の詮索が厳しく宿屋に断られ、土佐白川邸へ入る/薩藩西郷、長州三田尻で薩長土出兵の部署決定 11.19-油小路の手当て、及び葬儀両が新選組へ会津より下される/大久保、坂本暗殺は新選組に違いないとする手紙を岩倉へ出す |
15 | ●伊東・藤堂、坂本龍馬を訪問して時勢について議論した帰りに、見廻組・新選組が狙っていると忠告するという(西村兼文『新撰組始末記』)。日付には疑問あり。伊東らは坂本・中岡にたびたび忠告し、中岡は一時寓居を変えたが、坂本はきかなかったという。 *<坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺。新選組犯行説流れる>(「寺村左膳日記」) |
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16 | ●阿部、土佐藩・薩摩藩に衛士の保護を求めるが拒否される。(阿部談『史』) | ||
17 ? |
御陵衛士、建白書を提出。<伊東の事件簿慶応3年11月> | ||
18 | 伊東、暗殺される。 (1) 近藤、伊東を妾宅へ呼び出し。 (2) 伊東、新選組に暗殺される。 |
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19 | 未明油小路の闘い。藤堂、毛内、服部戦死。 (1) 油小路の闘い 新選組は、11月18日夜、伊東を罠にかけて暗殺した。その遺骸を油の小路に運び、伊東の同志をおびきよせる囮として放置した。19日の午前2時頃、遺骸を引取りに現われた衛士7(8)名と待ち伏せの新選組数十名の間に死闘が広げられ、衛士は藤堂・服部・毛内の3名が討死した。 ★伊東の遺骸を駕籠に載せ、藤堂が垂れ幕を引きおろしているところを、敵が後ろから一太刀斬り付け、発砲を合図に四方から伏兵が40人ほど飛び出した。藤堂は背中を斬られて振り向いたが、顔を額から鼻先にかけて斬りこまれ、抜き合わせるひまもなく即死した。(「岡本武兵衛聞書」) <ヒロ>「岡本武兵衛聞書」は御陵衛士の賄方をしていた武兵衛の11月19日の証言とされる。岡本は、当日、油小路に伊東の遺骸を引き取りに行った藤堂らに同行して一部始終を目撃していたようで、生々しい証言が記されている。 ★藤堂は、七条油小路の南西で刀を握ったまま討死していた。傷の箇所は両足。横腹が2ヶ所。顔面に深さ6センチ、長さ20センチほどの傷があった。(『鳥取藩慶応丁卯筆記』) ★御陵衛士が駕篭の中に伊東の遺骸を入れようとするところを新選組が四方から襲撃した。藤堂は三浦常次郎が討取ったが、三浦もそのときに斬られた膝の傷が元で死んだ。(永倉新八『浪士文久報国記事』) ★伊東の遺骸は駕篭に入れられており、足が出ていたので、藤堂がこれを入れようとした。そのとき、新選組が襲ってきたので、藤堂はまっさきに剣を抜いて闘った。しかし、素肌な上、四方を敵に塞がれた藤堂は、からだの数箇所に重傷を負って討死した。(西村兼文『新撰組(壬生浪士)始末記』) ★藤堂と毛内の両名が、伊東の遺骸を持参した駕篭の中に入れようとするときに、新選組が襲ってきた。藤堂は服部とともに非常に奮戦した。(阿部隆明(十郎)談『史談会速記録』90) ←阿部隆明は御陵衛士だったが、当日は他出しており、難を逃れているので、この下りは生き残りの同志からの伝聞である。 ★藤堂は最初に討死した。(小山正武談『史談会速記録』104) ←小山正武は桑名藩士で、当日の事件直後に現場を通りかかった。談話では、服部の勇猛な死に様を称えているが、藤堂の親友だったという山浦鉄四郎という会津藩士にも言及している。 ★新選組に襲撃されて残ったのは藤堂・服部・毛内。藤堂は四方を囲まれて逃げ場がなくなった。永倉の方にやってきたので永倉は見逃したが、三浦常次郎が藤堂を追いかけて背中を斬った。藤堂はそのとき三浦の両膝を斬ったが、絶命した。三浦は恩人の藤堂を斬ったことを気に病んで、その後、亡くなった。(『新撰組顛末記』) ←『顛末記』の永倉が逃がそうとしたが三浦が斬りつけたという下りは、同時代記録などと食い違う。回想を語った永倉あるいは回想談をまとめた記者の創作だという見方がある。三浦の入隊は御陵衛士分離以後で、藤堂に大恩があるとも考えにくい。三浦の死についても、『顛末記』より、永倉自筆の『浪士文久報国記事』の描写が信憑性があるのではないだろうか。なお、三浦には鳥羽伏見の戦頃まで生存していたという説もある。 (2) 伊東らの遺骸が放置される。三樹、加納、富山、今出川薩摩藩邸に入る。阿部・内海、土佐藩邸に断られ、戒光寺に。 ★遺骸が最初に埋葬された光縁寺の過去帳には「内実は」18日とされている。(「往詣記」) ★遺骸は翌日に埋葬した。(永倉新八『浪士文久報国記事』) ★伊東ら4名の遺骸は5日間、囮として油小路に捨て置かれ、昼夜張り番がついた。(『秦林親日記』) ★4名の遺骸は3日間、道路に捨て置かれた。彼らの友人である西村兼文が埋葬をさせてくれと屯所に談じに行くが、近藤に「ただの付き合いのあなたより、われわれ同志の方が付き合いが深い。衛士の仲間と相談するつもりで、仲間が来るのを待っているところである。土佐の犯行らしいが逃げるとは卑怯ですな」と言われる。遺骸は、3日目の20日の夜に新選組の手で仮埋葬された。 (西村兼文『新撰組(壬生浪士)始末記』) ★事件当日、阿部は他出していた。急を聞いて京都に戻った阿部は、東山戒光寺に潜伏し、戒光寺に頼んで遺骸を埋葬するよう新選組に談じたが、近藤は「遺骸は仲間に引き取らせる」といって断った。何度頼んでもだめで、二昼夜がたった。(阿部隆明談『史談会速記録』90) ★4名の遺骸を屯所まで引き上げ、それから埋葬した。(『新撰組顛末記』) ←永倉の回想が他とまったく食い違っている。付き合いのあった藤堂・伊東も含めた遺骸を数日間放置した異常な出来事を永倉が忘れるとは考えにくい。新選組のイメージダウンにつながる記述を避けようとしたための意図的なミスかもしれない。 ←彼らの遺骸は、新選組退京後の慶応4年2月13日に、同志の手によって戒光寺に改葬された。 |
(注)参考史資料は同時代史料、後年の回想録・記録、伝記・口伝、実話に取材した読物の4種類に分けて色分けしました。同項目に関して複数の史資料がある場合は成立年代順に並べました。資史料の語句をそのまま引用しているのは*「」*で囲んだ箇所だけで、残りは要約/パラフレーズです。 |
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