「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」

御陵衛士史跡トップ HPトップ

高台寺塔中月真院
御陵衛士の最後の屯所


慶応3年6月18日、伊東甲子太郎ら御陵衛士は東山五条善立寺から、東山霊山の山麓にある、臨済宗建仁寺派高台寺(Hp)の塔中月真院(山号、叢林山)に屯所を移した。月真院が屯所として選ばれた理由は定かではない(こちら)。

高台寺は、慶長11年(1605)、豊臣秀吉の冥福を弔うために、北政所(高台院)ねねによって建立された寺院である。塔中である月真院は、元和5年(1619)に津和野藩二代藩主亀井茲政によって建立され、初代藩主政矩の墓所がある。政矩は北政所と親しかったため、ゆかりの高台寺に墓所がつくられたのだという。月真院の斜め向かい(南西側)には、北政所が隠棲した円徳院(Hp)がある。北政所の兄木下家定の居館でもあり、往時は長屋門を構えた武家屋敷の造りになっていた。円徳院内には「歌仙」と呼ばれる木下長嘯子(家定の嫡子)を祀った歌仙堂がある(伊東の歌集「残しおく言の葉草」には長嘯子の妻が詠んだ歌が収録されているこちらの180番)。なお、円徳院の南には、安政期に僧侶月照が都落ちの密議を西郷隆盛と行ったことで知られる春光院がある。

月真院の周辺は、昔は萩と椿の名所だったそうで、織田信長の弟・有楽斎の屋敷から移植されたという有楽椿(樹齢約600年)が、山門内に現存する。また、山門を入った正面には石庭があり、本堂前には八坂の塔を借景とする庭が広がる。庭の東側には池があり、その奥は高台寺につながる裏山になっている。草木の生い茂るまさに「叢林山」である。往時、月真院には風雅を好む文人墨客がよく訪れたそうで、江戸後期の歌人の小沢蘆庵もその一人だったという。(和歌を嗜んだ伊東兄弟、毛内、服部、新井ら衛士たちが好みそうな庭である)。

月真院の本堂と庫裏には中二階があるが、一説に、庫裏の中二階(屋根裏?)は衛士が寝起きしていた「隠し部屋」だったという。

なお、月真院は、原則として非公開のお寺である(2004年夏までは宿坊に宿泊可能だったが、残念ながら現在は不可となっている)。


山門  2004.8

山門内の有楽椿 1999.3

山門を入って正面の石庭(奥が本堂) 2007.4

石庭 2007.4

本堂外観 2004.8

本堂(襖の向こうがご本尊)  2004.8

本堂内部 2004.8

本堂の前庭 2007.4

本堂の前庭の池 2004.8

本堂の前庭の池  2007.4


隠し部屋?山門を入ると左手奥に庫裏がみえる。庫裏への道は途中、右へ枝分かれしており、こちらは本堂の西側勝手口につながっている。

庫裏  1999.3 本堂の西側 2007.4

庫裏は一部が中二階になっている。お寺の方は、中二階の存在は長く忘れられており、昭和時代に庫裏で火事があったときに再発見されたと聞いているらしい(注)。正面から見ると中二階部分に格子状の小窓が見えるが、火事の後につけられたものらしい。また、本堂の裏側の廊下に中二階への階段があるが、これも、火事の前にはなかったそうだ。つまり、もともとは外から見ても、内から見ても、中二階があるとわからない仕組みになっていたようなのだ。残念ながら、このような中二階がいつ、なぜ作られたのかを示す文書はないそうだ。ただ、お寺の方によると、この中二階の部屋は、伊東ら衛士が寝起きしていた「隠し部屋」だという。縄梯子を垂らして上り下りしていたともいう。そうだとしたら想像をかきたてられるエピソードである。
庫裏中二階への階段
1999.3

庫裏の中二階には合計四室の部屋がある。階段を上がって左手に二室(八畳間と三畳間、八畳間は東側に小窓)、右手に二室(二間続き。奥行きは一畳分。南側に小窓)である。一部に火事で焼け焦げて黒茶けた柱や梁が残っているが、ほとんどが火事の後、補修されたときのものだという。

部屋に入ってまず驚くのが屋根裏部屋特有の天井の低さと八畳間を除く部屋の狭さ。また、以前は、小窓がなかったとなると、日中でも薄暗く、通気も悪かったはずである。夏は蒸風呂状態だったかもしれない。

 
左 部屋(1)(八畳間)  2004.8  右  八畳間から廊下をのぞく

 
左 部屋(2)(二間続き東側)  右 部屋(3)(二間続き西側)フラッシュのあるなし
1999.3 (やえさん提供)                        2004.8

<ヒロ>隠し部屋だったかどうかはさて置き、月真院はそれほど広いお寺ではないし、衛士が庫裏の中二階で寝起きしていたこともありえるとは思う。ただ、衛士には、六尺(180センチ)の服部や、やはり背が高かったといわれる伊東がいる。あのスペースに全員が寝起きしていたとすると、肩を並べてごろ寝していたとしか思えないが、蒸し暑い夏はさぞ大変だったろう・・・。でも、そこも、厳格な上下関係がなく「同志」・「誓いある人」・「友達」だった衛士らしいと思う^^。ただし、衛士は出張が多かったし、妻妾の住まう休息所をもつ者もあったので、彼らが実際にどれくらい、月真院に寝起きしていたのかは不明だ。

(注) 特に断りのない限り、本文中の「お寺の方から聞いた話」は1999年3月〜2004年7月に管理人が月真院を訪れたときに、当時お寺を管理されていたH氏からうかがったものである。但し、同氏は、庫裏の火事のときは、まだ入山されていなかったので、中二階に関するお話は氏の伝聞・推測になる。ちなみに、昭和の頃から月真院と親交のある幕末研究家の石田孝喜氏は、当時の住職十五世笠原承彦氏から「隠し部屋」や「伊東部屋」のことは聞いたことがないとおっしゃっている。


おまけ(1999.3撮影)
庫裏の中二階「隠し部屋」?からのながめ。
正面にみえるのはお稲荷さん。お稲荷さんの奥が有楽椿。遠くに見える塔が八坂の塔。
本堂の西側にあった引き戸。
あけると勝手口?の土間。

更新:1999.3.19、2000.3.27、2007.5.5 

御陵衛士史跡トップ HPトップ

「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」