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残しおく言の葉草原本版 (5)南朝・戦国時代の武家女性が詠んだ歌、など |
「残しおく言の葉草」は伊東甲子太郎の草稿を悟庵という人が撰んだ歌集です(詳しくはこちら) ・鈴木家蔵の原本から素人の管理人が判読して活字化しています。誤りに気づけばそのつど訂正します。 ・各歌の後の()の数字は、小野版における収録順です。原本と変わっていることがわかりますよネ。 ・157の歌からは原本のページが改まっています。以後、184まで南朝・戦国武将などの母・妻(あるいは武将自身)の名前を題とする歌が28首続きます。ほとんどが敗れた側の人びとで、悲劇的な最期を迎えています。歌も武将の妻(あるいは武将)としての覚悟をもつ者ならではの悲しくせつないものが多いと思います。『龍馬と新選組』ではこれらの歌を伊東が詠んだ歌だとして「もてる男は、残すものまでなにか華やかである」とコメントしていますが(p222)、28首すべてについて、題名の人物自身が詠んだ歌(辞世等)で伊東のものではないことを確認しました。私は、これらの歌は女性たちの生き様に心を寄せた伊東が選んだのだと思っています。伊東自身の歌からも、国のために命を捨てる覚悟をしながらも、故郷の母や妻、あるいは恋人(花香?)に心を残している様子がうかがえますが、そんな彼ならではという気がします。原本のページが改まっているのも選者の悟庵が、伊東の詠んだ歌と分けたかったからではだと考えています。 ・ピンク番号は上記28首のうち女性の歌。全部で24首あります。青番号は男性の歌です。また、調査の結果、伊東のものでないことが確定した歌の番号は下線で示し、歌は茶色で示しています。(全て伊東の歌ではないと確認しました。2006.12.19) |
157 |
楠正行の母 世の憂きもつらきもしのふ思ひこそこころの道のまことなりけれ(163) |
正行(まさつら)は正成の息子で南朝方の武将。母とは正成の妻、久子になる。湊川の戦で戦死した正成の首級が送られてきたとき、その前で形見の短刀で正行は自害しようとしたが、久子が諭してとめたという。そのときの歌。 |
158 | 郷の君 つらからは我も心の変れかしなと憂き人のこひしかるらん(166) |
郷の君は源義経の正室。河越重頼の娘で頼朝の乳母の孫娘にもあたる。頼朝主導の政略結婚の妻だったが、義経が奥州に落ちるときに同行し、衣川館で義経と共に死んだという。 この歌は、義経が都落ちをするとき、春には迎えを遣すことを彼女に告げるために弁慶を遣わしたとき、弁慶がふと見つけた歌だという。彼女がまだ義経を忘れていないことを哀れに思った弁慶が急ぎ義経に告げると、義経は感銘を受け、直々に迎えにいったという。 *『龍馬と新選組』では「つらからは」が「こ々ろからは」と翻刻されているが誤り。 |
159 | 脇屋義治室 またこんとたのむのかりの別路はまつま久しき名残なりけり(167) |
脇屋義治は脇屋義助の子で新田義貞の甥にあたる。南朝方の武将。父の死後、鎌倉を攻めたが敗れて出羽に逃れた。その後、四国に向かおうとしたときに、妻が別れを惜しんで詠んだ歌とされる。 |
160 | 犬縣禅秀室 さなきたに心のさわりありと聞我よりむかふ罪いかにせむ(168) |
関東管領犬懸(上杉)禅秀の妻。武田信満の娘。のこと。鎌倉公方足利持氏に叛旗を翻すが敗れて自刃。そのときの辞世? *小野版及び『龍馬と新選組』版が「犬懸」を「大懸」とするのは誤り。 |
161 |
細川六郎勝之いひなつけの妻 さめやらぬ夢かとそ思ふうき人の煙となりしその夕へより(169) |
細川勝之は応仁の乱時の東軍の将細川勝元の猶子。相国寺攻防戦で戦死した16歳の勝之には言い交わした公卿の娘がいたという。その娘が詠んだ歌。 |
162 |
尼子の旗下神西元通の妻 思川沈む木屑も浮む瀬をみのりの舟にかけてたのまん(170) |
元通は、「尼子十旗」の一人。毛利による上月城攻めで落城の際、主君尼子経久とともに切腹。妻は、元通とともに自刃をと願ったが、元通に許されなかった。落ち延びて菩提を弔っていたが、男に求愛され、切腹した元通への貞節を貫くために身投げしたという。 *小野版及び『龍馬と新選組』版が「元通」を「元直」とするのは誤り。 |
163 |
同 召使 お才女 のこるとも幾程世の経てしそ草葉にもろき露の玉の緒(171) |
本通の妻の女房「於才」のこと。身投げした妻の弔いをすますと、同じ場所に身投げしたという。(そのときの辞世?) |
164 | 大内常姫 霧包む大みね山のもみち葉もあらしやけふの敵なるらん(172) |
大内義隆の娘。義隆は家臣の謀反により、長門の大寧寺で自刃。『中古日本治乱記』では「霧かこむ大峯山の紅葉は嵐や今日の敵なるらん」。 |
165 | 右衛門尉為成娘、白拍子微妙 片岡にふせる旅人あわれ今たすぬる里に宿も宿らす(173) |
微妙の父為成は讒言によって入牢。他の囚人と共に奥州に流された。母は失意で死去。天涯孤独の微妙は父を探すため、白拍子に身を落として奥州を目指した。その旅の途中、鎌倉御所で見事な舞を披露した。彼女の身の上をきいた将軍頼家と北条政子は孝女ぶりに感動し、奥州に使者を遣して為成を探したが、為成は既に亡くなっていた。それを知った微妙は剃髪して菩提を弔った。 |
166 | 松嶋局 はりつめしむねの氷の薄からてとけん朝日の恵すくなき(174) |
源実朝に仕えていた松嶋局は、和田家から朝比奈三郎の嫁にと望まれ、実朝の許可を得た。ところが、小条の一族からも嫁にと望まれ、北条政子が松嶋局の朝比奈との婚姻を延期させ、小条に嫁がせようとしたため、松嶋局は病に伏してしまった。そのときに詠んだとされる歌。政子に従えば朝比奈への不貞となり、拒んで不忠になることもできず、朝比奈に貞操をたてて自害した。18歳だったという。 |
167 |
藤実勝夫人(南朝之士) つゝみなく心にかゝる白露のおき別れ行袖のけしきは(175) |
南朝の朝臣・滋野井実勝の正室(洞院実世の娘)の歌。実勝が御村上天皇に供奉して吉野を出立する際、「都が鎮まればお迎えにまいりましょう」と約束した。このとき、夫人が実勝の袖をひいて詠んだとされる歌。「吉野拾遺」では「何となく心にかかる・・・」。 |
168 |
返し 別れ路の露にはあらす嬉しさをやかてたもとにつゝみこそせめ(176) |
夫人の歌に対して「なぜそのようにお思いになるのですか」と実勝が返したとされる歌。実勝は、この後、八幡で討死。それを知った夫人は身を投げたが助けられ、以後、仏門に入って実勝の菩提を弔ったという。 |
169 |
北畠顕家夫人 なき人のかたみの野への草枕夢もむかしの袖のしら露(164) |
顕家は親房の子で南朝の武将。21歳で戦死。顕家の討ち死にした場所で詠んだとされる歌。ただし、夫人ではなく、母(親房の正室)が詠んだ歌だともいう。 |
170 |
別所山城守室 のちの世の道も迷はしおもひ子を我身にそへて行末の空(177) |
別所山城守(三木城主別所長治の叔父。別所吉親)の正室の辞世。吉親は豊臣秀吉の毛利攻めで毛利方につき、秀吉に攻められて、22ヶ月に及ぶ篭城の末(「三木の干殺し」)、甥の長治・彦之進とともに、城兵を救うことを条件に切腹。妻は勇猛で何度も出陣して敵兵と戦った。一族の自刃の際には、女性から始めたが、年長者(28歳)が見本を示しましょうと、我が子3人を刺し殺し、経をあげた後、懐剣でのどをついたという。 |
171 |
別所長治室 もろともに消ゆるこそは嬉けれおくれ先たつならひなる世に(178) |
三木城主別所長治(23歳)の正室照子(21歳)の辞世。照子は自刃したともいうし、長治が妻と幼子4人を刺殺してから切腹したともいう。長治の辞世は「今はただ恨みもあらず諸人の命にかはる我身と思へば」という。 |
172 |
同弟彦之進室 命をも惜しまさりけり梓弓末の代まての名をおもふとて(179) |
ここでは別所彦之進(21歳)の正室(17歳)の歌とされているが、彦之進の辞世ともいう。妻の辞世は「頼めこしのちの世までに翼をもならぶる鳥の契りなりけり」と伝わる。妻は自刃したともいうし、彦之進が妻を刺殺してから切腹したともいう。 |
173 |
柴田の末森 今爰にむとし余の日の数をたた一時にかへしぬるかな(180) |
柴田勝家の姉妹である末森殿のこと。北の庄落城前にに伴われて落ち延びたが、落城を伝え聞いて自刃したときの辞世。 |
174 |
同 息女 思ひきや武田の里の草の露今もろともに消えんものとは(181) |
末森殿と一緒に自刃した娘の辞世。 |
175 |
宇津宮鎮房女 なかゝゝにきへてはてなん唐衣たか為におるはたものゝ音(182) |
宇都宮鎮房=城井鎮房(きい・しげふさ)のこと。鎮房は、豊臣秀吉の九州平定時、黒田如水に暗殺された九州豪族。「女」は、如水に呼び出され、その後磔にされたという鎮房の娘(鶴姫)。左の和歌は辞世。 |
176 |
瀬川采女か妻菊子 斯あらん行えもしらてたのみつるわか心をはたれかかこたん(183) |
菊子は文禄の役で高麗に出征した夫瀬川采女を慕って手紙を書いた。手紙を運ぶ船が嵐で難破。文箱が浜に流れつき、漁師・役人を経て秀吉のもとに。手紙を読んだ秀吉は菊子を憐み、采女を帰還させたという。左の和歌はその手紙の中にあったもの。 |
177 | 武田の松子 染やすき余所の梢になれゝゝてつれなきかけにふる時雨かな(184) |
一説によれば、松子は京極高吉の養女で若狭の武田孫八郎信統の妻だという。夫が丹羽長秀に殺された後、太閤秀吉に側室となるよう望まれたが拒み、秀吉を悩ませたという。後、剃髪。 実はこの時代、京極高吉の娘で若狭の武田孫八郎との妻といえば竜子という女性がいた。(ただし、孫八郎元明の妻)。そして彼女の夫も丹羽長秀と戦い、死後、彼女は太閤秀吉に望まれた。彼女は側室となり、松の丸殿と呼ばれ、寵愛を受けたが、秀吉の死後、剃髪している。時代を経てこの竜子が松子とされた可能性があるかも? |
178 | 伊賀崎中務妻 死出の山慕ひてそ行契りおきし君か言葉を道のしほりに(185) |
伊賀崎中務は毛利の家臣冷泉元満の臣。文禄の役で高麗に行った中務は、戦死した主君に殉死。それをきいた妻は後追いの自刃をしたという。左の和歌は辞世。 |
179 | 山崎左馬介室 梓弓引別れにしけふよりはなき身の数をたつねても見よ(186) |
左馬介は戦国期の摂津三田城主山崎家盛のこと。家盛の室は三河吉田城主(当時)池田輝政(徳川家康の娘婿)の妹。石田三成が輝政に人質を要求したとき、家盛は、義姉督姫らを三田に匿った。しかし、妻を人質を要求されたときは差し出そうとした。落胆した妻は輝政の吉田城に下った。一説に、このとき妻は馬上で敵陣を駆け抜け、一気に吉田まで走ったとか。勇猛な女性として有名だったらしい。その後、剃髪。 |
180 |
木下長嘯子の室 命やはうき名にかへて何ならんま見えん為におくる黒髪(187) |
木下長嘯子(きのした・ちょうしょうし)=木下勝俊は豊臣秀吉の北政所ねの甥。勝俊の室は森蘭丸の姉於梅。関ヶ原の戦前、石田三成に伏見城が攻められた時、勝俊は城を放棄して高台寺に引き上げた。伏見城は落城。夫の行動に落胆した於梅は剃髪し、左の和歌と髪を送り、尼になった。ちなみに、長嘯子は「歌仙」と呼ばれる有名な歌人で、北政所の隠棲した高台寺円徳院の「歌仙堂」に祀られている。この円徳院は、衛士たちの屯所・月真院の斜め向いとなる。 |
181 |
細川候夫人 先たつはおなし限の命にもまさりておしき契りなりけり(188) |
細川忠興夫人=ガラシャが自刃の前に詠んだ歌。「契りとぞ知れ」とも伝わる。 |
182 | 加藤清正夫人 とりゝゝに盛り久しき桜花尽ぬき契りも妹と背の山(165) |
加藤清正自身の歌とする説もある。 清正の夫人であれば糟糠の妻正応院?清正の死後、嫡子忠広は正応院とともに肥後から庄内に配流となった。幽閉先の丸岡館で病死。【関連:山形県櫛引町役場】 |
183 | 北条政村 ひと声にあくるならひのみちか夜も待に久しき郭公かな(189) |
北条政村=執権北条義時の息子。歌人としても有名。 |
184 |
筒井定次 世の人の言葉にかゝる露の身の消ては何のとかもあらしな(190) |
筒井順慶の養嗣子。関が原の戦では東軍に属したが、その後、家康に改易され、陸奥の鳥居家に預けられた。大坂冬の陣において大坂方に内通した疑いをかけられ、切腹させられる。そのときの辞世。HP「大坂の陣絵巻」 |
185 |
有感て 遠きちかきかしこき人のみすくきはかきり無世に名を流すなり(195) |
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(途中まで書かれて打ち消された歌。判読できません) | *以下の四首は『龍馬と新選組』では原本にはないとされているが誤り。 |
186 |
なりわひにまゐ来てかへるから船は神もゆるしておひ風やふく(191) | 小野版では「とつくに船」と題がつけてあります。 |
187 | みてくらを千船に積みてさゝくともそのほきことを神やうくへき(192) | 同上 |
188 | しられしな野分の風をしるへにてしをれぬ花に染る心は(194) | 小野版では「題知らず」という題。 |
189 | わたつみのおき火にかくる小車の船いかはかりこかれ行らん(193) | 小野版では「蒸気船」という題 |
(1)上京、望郷、山南弔歌等 | (2)恋、志、中山道中等 | (3)春の歌、真心(離縁した妻への思い?) | (4)慶応3年8-9月、九州出張等 | (5)武将の母・妻の歌(伊東の歌ではない)など |
他HP・同人誌・商業誌(創作も含む)、レポート等作成の参考にされた場合は 参考資料欄にサイトのタイトルとアドレスを明記してください。 無断転載・複写・配布、及びやおい作品へのご利用は固くおことわりしますm(__)m。 歌の出典:鈴木家蔵の「残しおく言の葉草」 参考:『戦国の武将たち』・『戦国時代和歌集』・『新編国歌大観』・『新訂信長公記』・『吉野拾遺評伝』・『陰徳太平記』・『新日本古典文化大系60 太閤記』・『吾妻鏡』・『大日本女性辞典』など |
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HP「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」