私の曽祖父に当る人即ち鈴木忠明は志筑藩士であり字は忠次後専衛門と云っていた。初め藩主から非常に重く用いられ藩主の紋所は笹りんどうであるが、鈴木家の紋所としてりんどうくずしを賜った程であった。 甲子太郎、忠良等、ずっと青少年の頃を思ふ。武家の家風というものは立居振舞凡そ折目正しくするものであったらうが、曽祖父が、外出先等より帰宅した時など女は居ずまいを正し男ははかまの折目をなほし、正座して出迎へるのであった。曽祖父は、非常におだやかな人柄で、子供達に対して、決してしかったり大きな声でどなったり等しない人であった。諭すことがあれば静かにじゅんじゅんとして諭すのであった。子供達からは大いに尊敬され親まれていたようであった。故あって志筑藩を浪人後塾を開いたのは今の石岡市東大橋の三井寺と云ふところであった。門弟百人を超えたと伝記にも記してあるが、石岡市の元市長川並要先生の父親に当る方も塾生であったらしく、よく話しておられた。逝去した時も門弟の会葬するもの数百人を数えたと云ふ。三井寺はその後廃寺となり、又曽祖父の墓へ他の者のまい葬する者が現はれ、廃寺故に回向も充分出来ないというので昭和二十五年頃、私の四男である幹男が、その石碑を菩提寺である東耀寺に移した。墓の入口の左側実専明導居士と記してあるのがそれである。 曽祖母こよおばあさんは、本を片時も離した事がないという勉強家であったらしい。甲子太郎おじいさんにも忠良おじいさんにも母に当る人なのであるが、両人共この母親を非常に大切にしたようだった。曾祖母の写真が、昭和二十年の終戦頃までたしかにあったのであるが、その後ようとして見当らない。この写真も私の父が写したものであると思ふ。湿板で写したもので手札型で厚板そのものへ操作もして反転し、画像を正状にしたものであった。桐の箱に入っていた。これも本を持ったままで写っていた。紛失して実に残念でたまらない。 忠明曽祖父が逝去した後の事であろうと思ふ。村内で、何事かあった時、又村の家でお祭りかお祝い事でもある時は必ず先生の奥様といふので、招待されたのであった。そのお供についていったのは、須磨。祖母の長女であるやす伯母さんの子供の時分であった。どこの家に行っても曽祖母は上座に据えられ下へも置かないもてなしであった。酒を少したしなむと見えてほろ酔い機嫌になると、十八番である「大阪表を立ちいでて」と大津絵(管理人注:大津絵節)が飛び出したらしい。勉学家であった半面性格の非常に明るい人のようであった。 By 管理人 大津絵節について知りたい方は「大津絵踊・大津絵節」@HP「大津のかんきょう宝箱」をどうぞ。楽しそうですよね^^。 |
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