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2−4祖父の妹須磨のこと(仮題by管理人)

by  三樹三郎の孫 鈴木巌氏

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お須磨おばあさんは祖父忠良の妹である。同じ志筑藩士である田村要造に嫁したのである。私には殆ど記憶がないが、唯幼さない頃オフおばあさんといっていた様におぼえている。それは晩年ぜんそくがこうじて発作が起きると、オフ、オフといって苦しんでいたのである。その声を私は何処かで聞いている。私の家へ来ていた事があってその時聞いたのかも知れない。御維新後、志筑を離れ、一時石岡の木之地町に居を構えていたように聞いている。その後、石岡を引払って、一家は東京へ移て日本橋から本所深川へと居を移した。そして商いを営なんでいたが士族の商法で中々うまくゆかなかったらしい。そして、要蔵という人は四十代位で若死し須磨おばあさんは早くから後家になってしまったのであった。

お須磨おばあさんは字がうまかった。その後丁内の子供達、若い衆などへお習字のお手本を書いて過していた。さしづめ今の通信教育である。

お須磨おばあさんは、父親や兄弟達の影響を多分に受けていたのであろう。非常に徳の高い人であった。一家の中心人物であって家中の人からこの上なく尊敬されていた。孫達もおばあさんおばあさんといって大切にしていた。用事で外室する時もおばさんに今日は、どこそこへ行ってこんな用をしてまいりますと一々話しをして出掛け帰って来れば必ずその結果を報告するよう誰からともなく習はしになっていた。又お須磨おばあさんは、お銭の入ったさい布をいつでも枕辺に置いてあって、お金の必要の者はいつでもそのさい布から出してゆくよういなっていた。そのさい布にお金を断やさず補給しているのは、郁太郎伯父と私の父であったようである。田村家は長男の郁太郎は水戸の馬久労町の釘亥という砂糖問屋で是非養子にと強く要望されて釘亥の後を継ぐ結果になってしまった。次男の辰雄は私の父であるが、鈴木家の跡目を継ぐのであった。父の姉であるやすが田村家を継ぎ椎尾(筑波郡)の金沢家(元同じ志筑藩)から勝三郎がむこ養子に入った。

By 管理人
伊東はこの須磨(当時よし)を大変かわいがっていたそうです^^⇒「むらさき
(2004.8.4)

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