「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」
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御陵衛士の伝記 <3> 

故鈴木忠良伝 (私家版、大正8年)その1

鈴木忠良略伝

鈴木忠良は天保八年七月十二日常陸国新治郡志筑に生れ、初め三樹三郎と称す。父忠明字は忠次、後三四郎、専衛門と称す、母は同藩川俣家より来る。祖父忠兵衛、祖母は小桜村川俣桜井八郎左衛門より来る。

父忠明は志筑藩士にして郷目付たり、一時大に用いられ声望頗る高かりしが漸く人の妬みを受くるに及び、遂に家老横手惣蔵に讒せられ、君候の譴責を蒙りて閉門蟄居せしめらる。家老横手は短慮一徹人を容るゝの雅量なく、父忠明の権勢日々盛なるを見、常に之を喜ばざりき、忠明為めに快々として楽まず終に意を決して脱藩す。長子甲子太郎一時家督継承のこと仰せ付けられしが、後間もなく父忠明の借財諸所にあることを発見せられ、再び欠所となり領分内に一族の居住するを禁ぜらる。ここに於て一家を挙げて祖母の里方桜井家に同居し其世話を受くるに至る、而して忠良は兄甲子太郎と共に村塾に通学す。其後甲子太郎は水戸に出でゝ杉山藤七郎の高弟金子健四郎の道場に入り、剣道及び学術を修業す。

忠明桜井家に永く厄介たることを快しとせず、蓮明法王熊谷直実の跡を慕い高野山に入て剃髪せり。然るに高野山本王院志筑藩主に書を送りて忠明のため謝罪したるにより、後其の罪を許されたれども帰藩は許されず、依て文政十一年高浜の大橋に来り居を定めて村塾を開き、子弟を募りて漢籍を教授す、門弟一百人を越え漸く生活の窮苦を脱することを得たり、次で小井戸に支塾を設け甲子太郎をして其の教授に当らしむ。後数年にして嘉永五年二月廿三日夕刻忠明俄かに発病し後事を遺言して逝去す。大橋に葬り、法名実専明導居士と称す、門弟の会葬する者数百人。其後数年にして祖父忠兵衛没す、志筑の雲集寺に葬る。

忠明没後忠良塾務を引継ぎ其子弟の教養に従う。忠良の塾生教育に当るや時勢の趨く所を洞察し青年宜しく武事に通せざるべからずとなし、子弟を率いて付近の原野山林を跋渉し楠多門丸の旗を押立て擬戦の遊戯に耽る日多かりしかば、父兄の之を非難するもの漸く多きに至れり。

其の頃志筑藩の中小姓格寺内増右衛門より鈴木家に使者来り、忠良に其の養子たらんことを請ふ、曰く「余は今や八十歳なれども妻子無く唯老母一人あるのみ、而して余の屋敷は元貴家の居りし所なれば、鈴木家の出たる忠良氏を迎へ将来永く鈴木の血統の子孫に伝へんことを望む云々」と。時恰も忠良の母は故郷志筑に帰らんと欲する念切なる際なりしかば、好機逸すべからずとなし、使者と共に忠良に養子たらんことを勧めて止まず、忠良辞するに○なり遂に之を諾し志筑に移りて寺内家に入る。其後間もなく君候より召され山林取締役兼御朱印番を命ぜらる。忠良生来酒を好み漸く其量を増す、父増右衛門之を喜ばず寺内家を去るべしとの勧告をなす、忠良頻りに其の悪しかりしことを謝すれども許す所とならず遂に離縁せらる。ここに於て鈴木姓を用ふること能はざるより三木荒次郎と称して職を執ること元の如し。其の後忠良同僚菅谷竹蔵と共に磊落不羈小事に拘泥せず往々藩則を軽視する挙あるを以て職を解かる。然れども君候は忠良の有為の材なるを惜みて、恩典を与へ遠方に行くを禁ぜられ金子を若干給はる。


<ヒロ>
・慶応元年の本堂家分限帳には、中小姓席御朱戸番の寺内作右衛門慶道(嘉永六年三月より同職。高三両二分三人扶持)の名が見られる。三樹はこの人物の養子になったのではないかと思われる。
・同じ分限帳によれば「山守格」の扶持は高二両二分二人扶持である。

(2007.6.12,6.25)


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注:原文(手書き)のカタカナ部分を読みやすいように平仮名に直しています。改行や句読点は原文通り。
注2:同書には巻末に参考資料として、「壬生浪士始末記」「秦林親日記」「香川敬之私記」「坂本直書簡」「清岡公張書簡」「近藤勇(松村巌著)が挙げられています。これらに鈴木家蔵の資料や家伝が参考にされて、書かれたものです。

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