「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」
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御陵衛士の伝記 <3> 

故鈴木忠良伝 (私家版、大正8年) その2

後間もなく忠良江戸に出で志士と交りて国事に奔走す。時にペルリ渡来し尊皇攘夷の論沸騰して鼎の涌くが如く挙世騒然たり。既にして桜田門の義挙起り又老中安藤対馬守坂下門に於て志士を要撃せられ微傷を負ふ等のことありて、浪人連りに嫌疑を浮く。友人某忠良の身も亦危きことを慮り、速かに江戸を去るべしと忠告す。乃ち之に従ひ奥州仙台に行き志士桜田要平を訪ねんと欲し常陸国多賀郡田村に到るや、同地の人曰く「貴殿奥州に入らば直ちに捕縛せらるべし、宜しく此の地の侠客宇野孫六なる者に行きて謀るべし」と。依て翌朝宇野氏を訪ひ謀るに○来の方針を以てす、氏大に同情し其の親戚下君田村宇野蔵造なる者の子弟教授に当たらしむ。居ること数年同村の子弟を集めて剣導及び学問を教へ世間と隔絶潜伏せしを以て幸に事なきを得たり。

宇野蔵造に弟あり手綱藩に事ふ、或日下君田村に帰り来り忠良に語りて曰く「去ぬる日十七八才の人手綱藩に訪ね来り、自ら三木荒次郎の弟と称し藩の領地内に荒次郎氏の存否を問ふ。余は貴殿のことならんと思ひしが、若し斯く告げなば貴殿に如何なる危難の起らんやも計り難ければ、豪も知る所なしと答へしに非常に落胆せり、余之を不憫に思ひ貴殿は荒次郎氏に会はざることもなからん、何が為めに尋ね来りしかと問ひしに母病気なりとのことなりき、さて三木なる方は貴殿にあらずや」と。忠良曰く「余に弟なし、されど三木荒次郎とは我が事なり。母病気と聞きて一刻も猶予すべからず」と答へ、翌朝未明帰国の途に上る。宇野氏我子二人をして之を送らしむ、途中数泊して母の住所三村に着す。母頗る壮健にして病気に有らず、却て我子の突然帰省せるに驚き、母子互に其無事を喜ぶ。母曰く「世は益々多事ならんとす、汝直ぐに江戸に上り兄甲子太郎を訪ぬべし」と。忠良こゝに於て送り来りし宇野氏の子二人に旅費を与へて帰途に就かしめ、同時に母に告別して江戸に向ふ。

之より先甲子太郎は江戸に出で、剣道の名士伊東氏の道場に入りて修業し居りしが、師の臨終の遺言によりて其の婿となり、伊東氏を冒し剣道の師たり。忠良が兄甲子太郎を深川の伊東道場に訪ねしは元治元年夏のことなりき。時恰も水戸藩は尊王攘夷の首魁となり議論大に沸騰し、藤田小四郎武田耕雲斎等兵を筑波に挙げて天下騒然たり。八月松平頼徳水戸候の目代として水戸に赴くに当り、有志の浪士六十余人上野山下雁鍋に相会して応援の事を議す、伊東甲子太郎亦其の中に在り、○るに甲子太郎は久留米藩浪士古松簡次の忠告により応援隊に加はることを中止せり。而して志筑は筑波土浦間に介在するを以て何時兵火の巷とならんやも知るべからず、志筑より注進日夜江戸に来ること櫛の歯を引くが如し。かかる際とて甲子太郎は弟忠良の来訪を非常に喜び之に語りて曰く「志筑は今正に危急の時なり、余は事情赴くことを得ず、汝速かに行くべし」と、乃ち快諾して出発す、甲子太郎之を桜戸まで見送る。忠良、単身土浦に入り桜井旅館に於て昼食す。偶々天狗連の徒も亦同館にて食事し居りしが、互に警戒して一言をも交へず事なきを得たり。これより早籠に乗りて志筑に到り、叔父川俣彦八郎を介して、危急の場合微力を致さんため江戸より馳せ来りし旨を藩に申出づ、家老横手彦四郎之を君候に言上す、君候には大に其の志を嘉みせられ、翌日忠良を戦士に加ふべき旨を伝達せらる。忠良杉山信蔵と共に君候より賜はりし長屋に住み、日々数人にて藩中巡視の任に当り、中門詰所にて通行人を改め警戒怠りなかりき。天狗連の無法なる者隣村染谷の長谷川某の家に火を放ちて灰燼に帰せしめしが、志筑藩領粟田には敢て侵入する者なかりき。其の後、天狗連の勢力次第に衰へ藤田武田等越前に走りて事全く鎮定せり。或日家老より忠良の縁弟田村要造に内意あり、曰く「君候より忠良に対する奉書(辞令書)下附せらるべければ明日礼服にて出頭すべし」と。こゝに於て忠良意へらく天狗連既に平定せり、永く留るの要なし、今奉書を拝受して後に去らんよりは寧ろ之を受けずして去るに如かずと、乃ち其の夜直ちに志筑の地を後にして再び江戸に上る。


<ヒロ>
・桜田門外の変の翌年(文久元年)の書簡が残っており、(1)三樹が農業の出来に関心を示していること(やはり父親が郷目付だったから?)、(2)深川の伊東道場が小身の旗本規模で、伊東は塾頭であること、(3)三樹が桜田門外の変に関わった水戸浪士の処刑を「古今の豪傑、実に惜しむべきことなり」としていること、(4)三樹が外国公使館の建設を歎いていること、(5)脇差を送ることを頼んでいたこと、などがわかる。(参考:文久元年(推定)7月26日付書簡(1)柴?兄宛三木荒次郎書簡
・伊東が古松簡次の忠告で応援を断念したエピソードは、家伝にあったとも考えられるが、「鈴木忠良伝」の参考文献の一つにあげられている「壬生浪士始末記」からとられた可能性もあると思われる。

(2007/6/23,6/25)


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注:原文(手書き)のカタカナ部分を読みやすいように平仮名に直しています。改行は原文通り。
注2:参考資料として、「壬生浪士始末記」「秦林親日記」「香川敬之私記」「坂本直書簡」「清岡公張書簡」「近藤勇(松村巌著)が挙げられています。鈴木家蔵の資料や家伝が参考にされていることはいうまでもありません。

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