「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」
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御陵衛士の伝記 <3> 

故鈴木忠良伝 (私家版、大正8年) その6
〜慶応4年、投獄、軍曹任命〜

数日後忠良秦(=篠原秦之進)新井の三人突然御用これあり。皆其の何故なるやを知らず、兵士は出兵の大命下るならんと予想し喜びて三人の変えるを待つ。然るに豈図らんやご不信の廉有の御取調中阿州版に預くる旨の沙汰有り、而して此命の下るや直ぐに多数の阿州兵来りて無理に三人を駕籠に当時とを閉ざして縄を以て外部を結び阿州低に送致せらる。兵を以て護衛せしは途中赤報隊のために奪われんことを恐れてなり。ついに阿州藩の牢獄に投ぜられ、然るに翌朝再び三人とも駕籠に乗せられ昨日のごとく藩兵を付して京都の入口、蹴上に到り駕籠より出さる。ここは刑場なるを以て心窃かに斬殺の刑に処せらることを覚悟せり。休憩後又駕籠に投ぜられ逢坂の関を超え大津に抵り三人同一の獄牢に入れらる、獄中他に数名の在任ありき。入牢に三日にして新築の上り屋(座敷牢)に移され手当当亦之に準じて頗る寛大の取扱い受け、亦牢取締の者より貸本を貸■せられて無聊を慰むるを得たり、十数日の後忠良阿州案の糾問を受けたれどもいちいち之を弁明す。次で秦新井も糾問せらる。後数回にして呼出状あり曰く「薩州版に預け替となる故に出づべし」と。乃ち三人食終りて室外に出でれば同志遠武橘次既に来り居りて、告ぐるに薩藩に送致のため来れる旨を以てす。阿州藩之を聞き「貴殿一人にては困るべし、護衛の兵を貸さん」と云う、遠武「此の三人は嘗て我藩に居りし者なり、何ぞ他意あらん、御配慮に及ばず」と答へて之を辞し、且忠良等に向ひ「余は馬にて来れる故、一歩先きに出発せん、貴殿等は駕籠にて緩々来られよ」との一言を残して去る。阿州藩の者皆其の胆力驚けり。三人薩藩に着すれば長屋を賜はり且召使を附して大に歓待せらる、尚ほ門外に出づることは禁ぜられしたれども庭内の散歩は意のままなりき。斯くして暫く命の下るを待たれよとのことなりき。ここに在ること三カ月の後太政官より「嫌疑の廉晴れ候に付従前の如く告示に尽力すべし」との命下る。而して翌日即ち明治元年六月十二日太政官軍無冠より召され軍曹に任ぜらる。軍曹は■朝の軍政に則りしものにして極て重要なる軍職なりき。香川敬三、田中光顕、岩村通俊、新井陸之介、篠原秦之進等皆軍曹に補せられ忠良と同僚なり。

忠良待命中会津戦争に参加せんことを願出でたれども許されず、依て部下の兵をして奥州に向はしむ。而して忠良自由の身となるや直ぐに出発して会津若松に到りし事既に定り将さに凱旋せんとする際なりしが、或一隊頗る粗暴にして之を統率して帰京するに適任者なかりしば、忠良此の任に充てらる、忠良乃ち駕籠に乗り若し命に従はざる者あらば殺す決心を以て之を率い、無事の京師に変えることを得たり。其の途中江戸遷都の■■に逢ふ、忠良侍従に向ひて幕府の兵にあらず勤王の〇〇君主を奉送するなりと述ぶ。天皇之を聞こし召して大に其志を嘉みしけり。

<ヒロ>
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(2017/12/20)


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注:原文(手書き)のカタカナ部分を読みやすいように平仮名に直しています。旧字は適宜当用漢字になおしています。■は解読中の文字です。
注2:参考資料として、「壬生浪士始末記」「秦林親日記」「香川敬之私記」「坂本直書簡」「清岡公張書簡」「近藤勇(松村巌著)が挙げられています。それらと鈴木家蔵の資料や家伝が参考にされていることはいうまでもありません。

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