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翌日山科能登之助、阿部隆明二人を彦根藩に遣はし、告ぐるに江州松尾山にて兵を挙げんが兵糧弾薬豊かならず、幸に助力せられたきことを以てす。之に応じて■せし兵は僅かに一小隊くらいに過ぎざれば、弾薬及び兵糧軍用金を添え、兵には余力なければ米穀金子を以て勤王の志を明かにすべしとのことなりき。次で徳川譜代の各親藩にも出兵を促す、然るに何れも兵士には余力なしとて各応分の金穀を献ぜり。江州の富豪も之を伝聞して米穀金銭を献納する者少なからず。而して募兵は日に加はり進軍の準備金■整ふに及び濃州路を取りて鵜沼に到る。時に公卿大原重徳より使者来り書を綾小路卿に呈せられ、之に曰く「京都の形成漸く変じ附近の諸藩も亦勤王の行動に出づるものの如し、今や憂ふるはところなし、貴隊には節制なく庶民を苦むる者ありとの風聞を耳にす、一旦京師に還るを可とす云々」。同時に西郷隆盛より忠良の許に密使来る、其信書の趣旨亦大原公の言と同じ。然るに綾小路卿は今京都に引挙げなば再び兵を出すこと難しからんとて容易に肯んぜず、また先鋒相良も進軍を主張す。忠良は大原公及び西郷の言に従ひ頻りに帰京せんことを勧む、綾小路卿忠良を因循なりとなし、相良の言を用ひんとする傾向あり、忠良進軍の不利なることを極力主張す。相良の徒は遂に進軍す。然るに果せるかな、其軍信州諏訪に於て濫りに米穀金品を募りしにより誤解する所となりて殆ど皆斬殺せらる、其の徒の一人佐谷戸貞三郎僅かに身を以て遁し忠良の許に来りて援を求む。ここに於て忠良綾小路を報じて尾州路に出で大納言尾州侯に拝面す、大納言綾小路卿に金の采配、忠良に酒を賜はる。時に西郷隆盛より忠良に再度の書面ありて切に帰京を促す。ここに於て綾小路卿忠良に命じて京師に行きて実情を視察せしむ、忠良乃ち西郷の使者と出発し、西郷に面会して事情を詳述し出兵を請はんと思ひ昼夜兼行して京師に入る。忠良西郷に面会して再び出兵を命ぜられんことを請ひたれども西郷之を許さず曰く「貴隊を越後路に向けんと欲すゆえに一先づ引挙ぐべし」と。忠良其意を受けはや駕籠を以て尾州に帰り、綾小路卿に帰京を勧め、共に兵を率いて京師に帰れり。綾小路及び忠良は大原三位公の邸に入り、兵士は阿部隆明之を率いて寺町某寺に屯す、其後兵は日々薩藩の練兵場に於て調練をなす。 |
注:原文(手書き)のカタカナ部分を読みやすいように平仮名に直しています。旧字は適宜当用漢字になおしています。■は解読中の文字です。 注2:参考資料として、「壬生浪士始末記」「秦林親日記」「香川敬之私記」「坂本直書簡」「清岡公張書簡」「近藤勇(松村巌著)が挙げられています。それらと鈴木家蔵の資料や家伝が参考にされていることはいうまでもありません。 「故鈴木忠良伝」の転載・転用は絶対に禁止です こちらは、市居浩一氏所蔵の謄写版コピーを、管理人自身が市居氏及び謄写版所蔵者の鈴木家の許可をいただいてを掲載させていただいておりますので、管理人による転載・転用許可は一切出せません。ご理解ください。 |
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「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」