誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士
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九州行道中記は新選組分離前の伊東甲子太郎が九州を遊説したときの伊東直筆の記録で、和歌が17首収録されています。昭和15年当時、そのうちの13首を書き付けた伊東揮毫の額が篠原秦之進のご子孫が所蔵されており、『叔父従五位伊東甲子太郎武明・先考鈴木三樹三郎忠良』(鈴木家版)に写真が掲載されています。おそらく、伊東自身が撰したのではないかと思います。(篠原が「これこれの和歌がよい」とリクエストした可能性等も排除できませんが)。なぜ、この13首なのか、想像をめぐらすのも楽しいと思います。 また、書付られた和歌の詞書は「九州行道中記」(活字化されたもの)のそれと違う点があります。その場合、書付の方が要約バージョンになっている傾向があります。 なお、和歌自体についても、書付と活字化された道中記とでは、漢字やかなの送り方が違う部分があります。これに関しては、「残しおく言の葉草」原本収録の和歌と『伯父伊東甲子太郎武明・・・』等で活字化された和歌の間にもいえることなので、活字化にあたって小野圭二郎が編集した可能性もあると思います。 |
京都島原某楼(*1)にてちかへある人ゝと 酒酌みかわし別れをおしむ折ふし なれハ 世の憂きにぬるる袖さへ人ハたゝ いまのわかれのなみたとやみん ますら雄の袖の涙ハ別れ路に ぬるるものとハおもはさりけり 九日(*2)の朝大坂より兵庫をさして 急ぎ行とて ますら雄のこころと共に春霞 たつをな留めそおおさかの関 湊川楠公の墓前にて(*3) 行末ハかくこそならめわれもまた みなとかわらのこけの石ふみ 湊川を立出るとて 波風のあらき世なれハいかにせん よし淵瀬に身を沈むとも 九州大宰府天神の社参詣の 折ふし梅花の盛に匂いけれハ まろふ人ハ雲井の君よもてなしに あるし顔にそにほふ梅か香 肥後の国 心をも身をもわすれて後にこそ つくすまことやあらわれもせん 廿十二日同国にて みはやさん人さへなきに山桜 なにをたよりに咲にほふらん 問ふことに峯また峯に答ふなり 幾日になりぬ山彦の声 豊後英彦山峯登り坊中にて 九重をてらす影とて仰かるゝ いやひこやまの春の夜の月 豊後日田原にて嫌疑をうけし時 まこころの清を何にくらへみん 日田のかわらの春の夜の月 筑後府中高良山竹内宿称の 社前にて 古への神もおわさは吹はらへ えみしか舟をあらき波間に 肥前佐賀にて 今更になにをかものをおもふへき 世にもうれしきますらおの友 伊東武明 |
*1 「叔父伊東甲子太郎武明」及び「伯父伊東甲子太郎武明」の原本(コピー)の九州行道中記では「木楼」と翻刻されているが、なぜか、『新選組史料集』収録の「伯父従五位伊東甲子太郎武明」には「木津楼」と記されている(注意書きはない)。管理人には「木」にも「木津」にもみえず、「某」か「東」にみえてしまう・・・。いちおう、ここでは「某」を採った。 *2 「叔父伊東甲子太郎武明」の九州行道中記では(1月)19日。「叔父伊東甲子太郎武明」に掲載されている原本の一部の写真(「24日 堤村・・・」から始まる)から類推して、道中記の19日の方が正しいと思われる。(つまり、伊東のケアレスミスか勘違いかってことになる。伊東らしい・・・気がします)。 *3 「叔父伊東甲子太郎武明」の九州行道中記では「碑前」。伊東が道中記では「碑前」としたのか、道中記の翻刻が誤りなのかは不明。 |
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