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服部三郎兵衛(武雄)

【油小路で闘死した剣の達人】服部は赤穂出身。一説に政治を曲げる老臣を斬って脱藩したという。その後横浜で外国人取り締りを務めたときに、同志の加納の紹介で伊東を知り、「兄弟のごとく」に交わったという。伊東と共に上洛。両刀使いで、多くの史料に剣が非常にできたといわれているが、新選組時代の血なまぐさい記録は残っていない。剣だけでなく、詩歌も嗜んだ。伊東暗殺の報に油小路に駆けつけ、待ち伏せの新選組相手に勇戦。多くに手傷を負わせるが、両刀が折れたところ、原田の槍で殺害される(斎藤にとどめを刺されたとの異説もある)。両手に刀を握り締めたまま大の字に倒れたという。事件直後の現場を目撃した桑名藩士が、服部の勇敢な死に様を称えている。
名前 服部三郎兵衛良章 (新選組時代は服部武雄)
出身 播州赤穂
生年 天保3(1832)生まれ←戒光寺墓碑より逆算
没年 慶応3(1867)11月19日、油小路にて戦死。享年36歳。
詩歌 坂本立馬主横死の由を聞きて
「たずぬべき 人もあらしの 激しくて 散る花のみにぞ 驚るかれぬる」(『近世殉国一人一首伝』)
年表 生い立ち 新選組・御陵衛士

【小伝】

新選組加盟まで

★奸臣を軌って赤穂を脱藩?

服部は播州赤穂出身で、『殉難録稿』によれば、藩の老臣が政治を私物化するのを憤ってこれを殺害し、出奔して江戸に潜伏したという。幕末赤穂でこれに類する事件といえば、文久2年12月に起った勤王派下士13名による藩老・参政暗殺(参政村上の関係者が明治4年に高野山で仇をうった事件は「最後の仇討ち」として有名)となる。しかし、暗殺者13名に服部姓の者はおらず、それぞれの末路も自殺・病死・仇討ちによる死等、明確であるので、服部がその中の一人である可能性はない。『高台寺党の人びと』の市居氏の調査によれば、13名の連累にも服部姓はみあたらないそうである。郷土史家の方によれば、赤穂藩士服部某の子供が服部かもしれないという。大柄だったそうだ。しかし、この人物は若いうちに出奔したと伝わっているそうで、「最後の仇討ち」関係者である可能性はない。

★伊東甲子太郎と兄弟同様の交誼

江戸に至った服部は、文久3年正月までには篠原・加納・佐野ら後の同志と出会った。その後、篠原らとともに神奈川奉行所配下の外国人居留地警備についた。同年10月、篠原らは、奉行所に乱入した英国人を組み伏せ、縄で縛って海岸に放置したというが、この件に服部が加わっていたかどうかは定かではない。

服部は、おそらく伊東道場に出入りしていた加納の紹介で、いつのころか、伊東や鈴木と出会った。服部は、伊東の意見をきくと自分と同じだとわかったので、以後、深くつきあうようになり、兄弟のようにしたという。伊東が藤堂の勧誘を受けて上洛を決めたときも、当然同行することとなった。(ただし、会津藩の入隊希望者名簿には名前がみられない)

新選組時代

★監察

慶応元年夏、服部は新選組の新編成で諸士調べ役兼監察に任じられた。大柄で、武芸、ことに剣術には非常に秀でており、一説に「京洛一」との評判もあるほどだったが、なぜか剣術師範には選ばれていない。もっとも、これは、伊東派の剣の巧者全員に言えることで、別格の伊東はもちろん、伊東道場の師範代であった内海・中西も新選組の剣術師範には選ばれていない。新選組の武術面における伊東派の影響力を避けた意図的な処置なのかもしれない。

慶応2年春、近藤が伊東らを連れて長州訊問使の永井尚志に随行して広島出張をしたとき、服部も同行した。伊東に信用されていたことがうかがえる。慶応2年9月12日、三条制札事件の折り、目付けとして現場に赴いていたが、戦闘には参加しなかった。

御陵衛士時代

★坂本龍馬の弔歌

慶応3年3月には、伊東らとともに御陵衛士として新選組を離脱した。

衛士時代の服部の消息は、油小路事件当夜の壮絶な死に様以外、ほとんど伝わっていない。ただ、坂本龍馬の暗殺をきいて詠んだ歌が一首、伝えられている。

坂本立馬主横死の由を聞きて
「たずぬべき人もあらしの激しくて 散る花のみにぞ驚るかれぬる」
(『近世殉国一人一首伝』)

服部と坂本の接点は不明である。伊東は何度か坂本と会っているようなので、伊東から人となりをきいていたのかもしれない。また、坂本が月真院を訪ねたことがあるという説もあるので、そのときに見知ったのかもしれない。

油小路事件

★伊東を諌止

伊東が近藤の招きを受けて出かけようとするとき、服部はその袖をとらえて、<新選組が理由もなく君を招くのは甚だ不審である。行くのはよせ>と諌めたという。しかし、伊東はきかずに出かけ、はたして新選組の刺客に暗殺されてしまった。

★伊東の悲報、鎖かたびら着用を主張

伊東要撃の報が月真院に届き、驚愕した衛士たちが善後策を話し合ったとき、服部は「敵は新選組に違いない。(戦闘になるだろうから)甲冑の用意をするべきだ」と主張したという。しかし、篠原が「もし戦うことになれば多勢に無勢である。(討死は必定だが)路上に甲冑をきた死体をさらせば後世のあなどりをうけるだけで、平服で臨むべき」と反論し、衛士たちは平服で油小路に向かうことになった。しかし、服部は密かに衣服の下に鎖を着用して出向いた。

★油小路、刀が折れるまで激闘

油小路に急行した衛士たちは、待ち伏せの新選組に襲撃された。藤堂・毛内はまもなく闘死し、加納・篠原・鈴木・富山は包囲を破って逃げたが、服部はひとり踏みとどまって闘い続けた。腰に提灯を差したまま、三尺五寸の長剣を抜き、民家を背に、門扉を一方の固めとし、二方に敵を引き受けて激戦した。新選組は両刀を使う服部一人にてこずり、負傷者も多数でた。ついに原田が槍で突き殺したという(一部の新選組ファンの方が、よりにもよって服部の眠る戒光寺墓所に原田のイラストを描かれるのが残念です:涙)。また、油小路の町内に二階から様子を見ていた者によると、服部の刀が折れたところを、一斉に討ちかかって倒したという。刀が折れたところを槍で突き、倒れたところを寄ってたかって斬りつけたというところではないか。

★血染めの詩文稿

服部の遺体の状況は「疵所背中数ヶ所、是は倒れ候処を散々に切付候趣にして、疵の数分からず。うつむけに倒れ居候を、翌日あおみけ候ところ、腕先三ヶ所股脚四、五ヶ所、かか先一ヶ所、胴腹一ヶ所流血おびただしき」(『鳥取藩慶応丁卯筆記』)であった。懐中からは血染めの詩文稿がのぞいていたという。

★「一身を以って衆敵に抗し、以て同行の四人をして逃脱せしむ・・・」

油小路事件直後の現場を通りかかった桑名藩士の小山正武は、のちに、「なかんずく服部氏の死状は最も物見事である。ドウも実に服部氏は其際廿余歳の優れた身体で以て立派に沈勇的精神が死顔に顕われ溢れつつ手に両刀を握ったるままで敵に向かって大の字なりになって斃れておられた」と証言し、また「其烈戦奮闘の非常なる一身を以って衆敵に抗し、以て同行の四人をして逃脱せしむるの暇を得せしめたることも又以て想うべき也」と述べている(小山の史談会証言)。

思うに、服部は、ひとり密かに鎖を着用して油小路に向かったとき、すでに、新選組に囲まれれば自分が踏みとどまって同志を逃がす時間を稼ごうと決意し、討死を覚悟していたのではないか。遺体の懐中に詩文稿があったことも、死を覚悟していたことを思わせる。

参考資料:年表をごらんください。

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