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【会津藩邸で横死】 |
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名前 | 茨木司 |
出身 | 陸奥相馬中村藩 |
生年 | 不明。 |
没年 | 慶応3(1867)年6月13日、会津藩邸で横死。墓所:京都東山戒光寺。 |
評判 | ・「此男は力はあるし丈は大きくそれに勉強家でございます」「非常に勉強家でございまして剣術も免許以上出来まして柔術も免許以上を使いました。又少しく文字もございます」(阿部十郎談『史』) |
年表 | 生い立ち 新選組 御陵衛士(準備中) |
関連 |
新選組入隊茨木司については相馬中村藩出身だという以外、生い立ちは知られていない。■伍長・ 新選組に残留
■近藤勇に評価された男
さらに、阿部によれば、伊東は、同年5月にも新選組が幕臣に取り立てられることを知っており、そのときになれば、他の者をまとめ、公然と議論を立てて分離するよう茨木に指示したという。(ちなみに、伊東らが分離を決意した理由の一つにこの幕臣取立ての動きがあったとされている) 会津藩邸において横死■新選組の幕臣取立て慶応3年6月10日、新選組総員が幕臣に取り立てられた。 茨木らは<(武士なので)二君につかえずという気持ちをもち、浪士の身分で志を立てて今日まで国家につくしてきたのに幕臣となり栄誉をたまわるのは旧君に申し訳がたたない>と分離を決意し、伊東らが屯所とする長円寺(善立寺の間違いか?)に赴いて同盟を求めたが、伊東は<今、こちらに来るのは新選組の恨みをかうことになり、時機がよくない。もうすこし時勢を待ってくれ(とりあえず隊へ戻れ)>と彼らを説得したという。しかし彼らは帰隊を望まなかったので、伊東も困り果て、普通の論では除隊は許されないが、会津藩に脱退を願えばよいのではないかと策を授けたという。 ■会津藩に上書提出 同月13日、佐野・茨木ら10名は連名で会津藩に上書を提出し、近藤を説得するよう願い出た。対応したのは公用人の小野権之丞、諏訪常吉だったという。上書の大意は次のとおり。
諏訪は、近藤に照会してから返答するので後でまた来るよう指示したという。近藤の返事は、<これは伊東の誘導によるものでほかの隊士にも不利益を招くものであり、帰隊するよう説得してください>と言うものだったようで、夕方になって10名が会津藩を訪問したときに、諏訪は<願いもわかるが、こちらにも都合があるので、とりあえず一度新選組に帰りなさい>と説得したという。しかし、茨木らは承知せず、夜になっても会津藩邸から動こうとしなかったので、困った諏訪は、<それでは明日またくるように。それまでよく考えた上で返事をするから>と言い渡したという。茨木は<時節がら、一泊の宿をみつけるのは難しい。伊東のところなら大丈夫だから、副書でもいただければ一泊くらいは(近藤も)免じるだろう>と言ったが、諏訪はその一書を与えなかったので、彼らは行き先をなくしてしまった・・・。窮した茨木らが、西村兼文を訪ねて<伊東に明日の策を求めてきてくれ>と頼んだ。西村が伊東兄弟を訪ねて一部始終を話すと、<明朝、ひそかに私宅にくるように>との答えだった。西村は伊東の言葉を茨木らに伝えると、堀川の旅館に談じて一泊させた。 同14日の明け方、茨木らが伊東に会いに行ったところ、伊東は<諸君、今日の会津行きは必ずよくないことになる。いかにも不安です。近藤はどんな策略をもっているかわからないし、とりあえず一度京都を去って身を隠し、時勢を待ってはどうだろう>と説得したが、茨木は<まさか守護職邸でなにかするわけがない。そのへんは気遣い無く>と出かけたという。 戒光寺へ改葬茨木らの遺体は、新選組隊士の菩提寺である光縁寺に仮葬された。慶応鳥羽伏見戦争後、朝廷からの沙汰によって慶応4年2月13日、戒光寺に改葬された。 |
参考資料:「毛内青雲志録」(『新選組研究最前線下』)、『史談会速記録』、『殉難録稿』
『高台寺党の人びと』・『新選組隊士列伝』・『新選組研究最前線上』
「新選組聞書 稗田利八翁思出話(『新選組物語』)」・『戊辰物語』・『志士詩歌集』
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