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茨木司

会津藩邸で横死】

名前 茨木司
出身 陸奥相馬中村藩
生年 不明。
没年 慶応3(1867)年6月13日、会津藩邸で横死。墓所:京都東山戒光寺。
評判 ・「此男は力はあるし丈は大きくそれに勉強家でございます」「非常に勉強家でございまして剣術も免許以上出来まして柔術も免許以上を使いました。又少しく文字もございます」(阿部十郎談『史』)
年表 生い立ち 新選組 御陵衛士(準備中)
関連

小史

新選組入隊

茨木司については相馬中村藩出身だという以外、生い立ちは知られていない。

■伍長・
新選組には慶応元年前半に入隊したようだ。同年七月には、伊東甲子太郎・篠原秦之進・富山弥兵衛・久米部正親と浪士探索のため奈良に出張した(「秦」)。翌慶応2年9月12日には三条制札事件に出動し、大石鍬次郎等十人で三条大橋東側に待機したという(「壬」)。

新選組に残留

■近藤勇に評価された男
慶応3年3月、伊東らは御陵衛士を拝命し、新選組から分離した。このとき、茨木は伊東らに同行せず、新選組に残留した。伊東らの同志のうち、佐野七五三之助・富川十郎・中村五郎の3名が残留した。茨木が残留した理由は、阿部十郎(明治33年の史談会)によれば、近藤が茨木を高く評価しており、分離を許さなかったためだという。

「・・・近藤は非常に惜しみまする。私の方でも此れを是非共出したいのでございますけれども無理に之れを引連れるとしまするといふと、遂に近藤の為めに疑いを起されるということになりますから、已むを得ず四人ばかり残しました。・・・茨木司といふ者が非常に近藤に愛せられた者でございますから、彼れは残して置なければならぬといふので、已むを得ず彼れは残しましたが・・・」
「近藤も非常に欲しがりまして、どうしても出すと申しませぬので、どうか茨木だけは残して置いて呉れろということでござりまして、之を無理に連出しましょうと致しますと、自然近藤に疑を起させるようなことになりますから、止むを得ず之は残したのでございます」

さらに、阿部によれば、伊東は、同年5月にも新選組が幕臣に取り立てられることを知っており、そのときになれば、他の者をまとめ、公然と議論を立てて分離するよう茨木に指示したという。(ちなみに、伊東らが分離を決意した理由の一つにこの幕臣取立ての動きがあったとされている)

一方、

茨木は「正直に物に迫る性質」


残すに付きましては、予て近藤の志願といふのは幕士となる了簡、五月になりますると愈々其身分は取極めになりまするのでございます、それを吾々が密々知って居りますから、私共は素より勤王の志の者である。正○其時分に暗殺をする訳には往くまい、私は五條坂に居りましたが、其後又移りまして東山の広大寺に居りました、私は時々司を呼むで会ひまして双方で話をして、聴いたり聴かしたりして居りました、それから私が御前は自殺をするやうな了簡を出してはならぬ、近藤に説諭されてさうして自殺をするやうではならぬ、それを非常に心配をする、決して狭い心を持つなと私は時々意見をした所が、本人がどうも物に迫る性質でございまして、其場に至って降服して仕舞ひました、それでは帰らうと言って

会津藩邸において横死

■新選組の幕臣取立て
慶応3年6月10日、新選組総員が幕臣に取り立てられた。 茨木らは<(武士なので)二君につかえずという気持ちをもち、浪士の身分で志を立てて今日まで国家につくしてきたのに幕臣となり栄誉をたまわるのは旧君に申し訳がたたない>と分離を決意し、伊東らが屯所とする長円寺(善立寺の間違いか?)に赴いて同盟を求めたが、伊東は<今、こちらに来るのは新選組の恨みをかうことになり、時機がよくない。もうすこし時勢を待ってくれ(とりあえず隊へ戻れ)>と彼らを説得したという。しかし彼らは帰隊を望まなかったので、伊東も困り果て、普通の論では除隊は許されないが、会津藩に脱退を願えばよいのではないかと策を授けたという。

■会津藩に上書提出
同月13日、佐野・茨木ら10名は連名で会津藩に上書を提出し、近藤を説得するよう願い出た。対応したのは公用人の小野権之丞、諏訪常吉だったという。上書の大意は次のとおり。

「恐れながらわれわれは先年来、勤王攘夷のため、尽忠報国の志を立てたい一心で本国を脱走し、新選組に身を預けていましが、(中略ヒロ)・・・今さら(幕臣という)格式をちょうだいしては、それぞれの本藩へも面目なく、ニ君につかえるということからも逃れることができず、これにより難しい状況になってしまいます。恐れ入りますが、御支配の法のこともありますので、どうか(近藤)隊長にこのむねを伝えて異議なく願いがききとどけられるよう、泣血嘆願いたします」

諏訪は、近藤に照会してから返答するので後でまた来るよう指示したという。近藤の返事は、<これは伊東の誘導によるものでほかの隊士にも不利益を招くものであり、帰隊するよう説得してください>と言うものだったようで、夕方になって10名が会津藩を訪問したときに、諏訪は<願いもわかるが、こちらにも都合があるので、とりあえず一度新選組に帰りなさい>と説得したという。しかし、茨木らは承知せず、夜になっても会津藩邸から動こうとしなかったので、困った諏訪は、<それでは明日またくるように。それまでよく考えた上で返事をするから>と言い渡したという。茨木は<時節がら、一泊の宿をみつけるのは難しい。伊東のところなら大丈夫だから、副書でもいただければ一泊くらいは(近藤も)免じるだろう>と言ったが、諏訪はその一書を与えなかったので、彼らは行き先をなくしてしまった・・・。窮した茨木らが、西村兼文を訪ねて<伊東に明日の策を求めてきてくれ>と頼んだ。西村が伊東兄弟を訪ねて一部始終を話すと、<明朝、ひそかに私宅にくるように>との答えだった。西村は伊東の言葉を茨木らに伝えると、堀川の旅館に談じて一泊させた。

同14日の明け方、茨木らが伊東に会いに行ったところ、伊東は<諸君、今日の会津行きは必ずよくないことになる。いかにも不安です。近藤はどんな策略をもっているかわからないし、とりあえず一度京都を去って身を隠し、時勢を待ってはどうだろう>と説得したが、茨木は<まさか守護職邸でなにかするわけがない。そのへんは気遣い無く>と出かけたという。

戒光寺へ改葬

茨木らの遺体は、新選組隊士の菩提寺である光縁寺に仮葬された。慶応鳥羽伏見戦争後、朝廷からの沙汰によって慶応4年2月13日、戒光寺に改葬された。

参考資料:「毛内青雲志録」(『新選組研究最前線下』)、『史談会速記録』、『殉難録稿』
『高台寺党の人びと』・『新選組隊士列伝』・『新選組研究最前線上』
「新選組聞書 稗田利八翁思出話(『新選組物語』)」・『戊辰物語』・『志士詩歌集』


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