【京】慶応3年3月10日(1867.4.14)、伊東甲子太郎ら十数名が孝明天皇の御陵衛士を拝命しました。(日付は「筑後之住秦林親称秦之進履歴表」。以下にみるように、御陵衛士拝命は分離後とする資料もある)。 御陵衛士拝命・新選組分離に係る史料(同時代史料、旧衛士の談話・作成文書、当時衛士と親しかった西村兼文の著作)は以下の通り。(作成・談話時期の古い順。番号は仮)
<ヒロ> 上掲の秦林親日記によれば、孝明天皇の御陵のある泉涌寺の塔頭戒光寺(御陵衛士墓所があるお寺でもある)の長老(泉涌寺の前長老)湛念が尊王の志あつく、篠原が堪念に頼んで朝廷にかけあってもらい、拝命にいたったそうです。(戒光寺・湛念、御陵衛士との関わりはこちら そうなると、伊東と新井が、九州出張中で、大宰府の激派公卿(禁門の政変で追われた公卿)や護衛の志士と面会し新選組からの分離計画について理解を得ようとしたり、長崎に9泊もしてたりという間に、御陵衛士拝命の働きかけを篠原らが行うという分担があったということになります。 秦林親日記は篠原の後年になってからの回想録(息子が書いたとの説もあり)で、自分がひとりで堪念にかけあったかのように書いていますが、『史談会速記録』の阿部十郎の談話や毛内有之助関連の同時代書間(「毛内監物青雲志録」)からは、彼らも湛念/戒光寺とは懇意であったようで、同志力を合わせての御陵衛士拝命だったのではないでしょうか。 さて、御陵衛士は形式上は幕府山陵奉行の配下となっています。ところが、山陵奉行戸田忠至(大和守)は実は朝廷から任命されており、ほんの少しですが給与を下賜されているので、いってみれば朝臣でもある、特殊なポストにありました(朝廷から任命された禁裏守衛総督だった慶喜の立場と似ているかも???)。朝幕双方に深い関りをもつ山陵奉行配下となることは、一和同心という伊東の基本方針ともよく合います。このことも、御陵衛士拝命運動を展開するときに頭にあったのではと考えています。 また、『京都守護職始末』によれば戸田忠至は会津藩の長沼流軍学を学び、かつ昔から戸田家と会津松平家とは親密な関係だったようです。文久2年9月に容保が守護職を拝命してから、容保は家老田中土佐らを京都に先発させて下準備を行わせましたが、会津藩は公家と姻戚関係になく、朝廷の事情をうかがい知ることが困難でした。そこで、土佐が頼ったのが忠至だったのですが、忠至は宗家である議奏・正親町三条実愛(当時は公武合体派)を紹介し、恐らくそれがきっかけで、土佐らは三条実美とも会見することができました。新選組を預かる会津藩と山陵奉行である忠至との良好な関係も、伊東らの衛士拝命を後押ししたような気がします。 ところでこの御陵衛士の拝命時期について、一般に秦林親日記の3月10日といわれていますが、それを裏付ける史料は未見です。明治2年と3年に津軽/弘前藩が提出した公的書類に「同志決議の上断然新撰組離局致し其の後山陵御衛士と相成り・・・」とあり、はっきりと新選組分離後の拝命だとされています。津軽藩では、藩士葛巻行雄が、慶応4年2月に三樹三郎を始めとする御陵衛士関係者を訪れて集めた情報を毛内の母に知らせており、また、翌明治2年春頃から、戒光寺の墓地への墓碑建立⇒香炉・手水鉢の奉納について新井たちと行き来しています。新選組離脱・御陵衛士拝命の経緯を旧御陵衛士に確認する機会はあったと想像できるし、御陵衛士拝命の時期について偽る理由もなさそうですよね。後年の阿部の証言では「伊東甲子太郎が新井忠雄と申します者を連れまして、九州に行きまして漸く分離の策を立てました」、加納の証言では「伊東は近藤と熟談の結果で」分離した、さらに衛士らと交友のあった西村兼文の『新撰組始末記』では「伊東徒は(近藤との会談時に)山陵の衛士を希望し、勤王一偏に尽力せんことを請う」となっており、御陵衛士の拝命は分離後だった可能性もありうるかも?と思います。 <参考>『史談会速記録』、『京都守護職始末』、『伯父甲子太郎武明・岳父鈴木三樹三郎』、『維新日乗纂輯』第三、『野史台維新史料叢書』30、『新選組研究最前線』下 関連:「九州行道中記」@衛士館、御陵衛士日誌「慶応3年(2)」@衛士館 |