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慶応3年3月10日(1867年4月14日) 
【京】伊東甲子太郎ら、御陵衛士拝命

【京】慶応3年3月10日(1867.4.14)、伊東甲子太郎ら十数名が孝明天皇の御陵衛士を拝命しました。(日付は「筑後之住秦林親称秦之進履歴表」。以下にみるように、御陵衛士拝命は分離後とする資料もある)。


御陵衛士拝命・新選組分離に係る史料(同時代史料、旧衛士の談話・作成文書、当時衛士と親しかった西村兼文の著作)は以下の通り。(作成・談話時期の古い順。番号は仮)

旧幕府よりより新撰組の者共へ勤功の浅深に随ひ夫々相応の格式扶持方等使わすべきの趣に候処、前書監物等同志の者共元来勤王の一図の志願を以て家産を廃止旧来恩顧お主家脱走身分にこれある処、今更徳川家の扶助を受け候ては二君に仕ふるに相当たり、且つ勤王の素志に相戻り不本意の旨趣主張いたし同僚議論居合せかね、遂に同志申し合わせ断然新撰組離局、其の後山陵御衛士と相成り・・・
明治2年3月10日付弁官御役所宛津軽少将公用人赤石礼次郎による御届の写し
(「毛内良胤(有之介)青雲志録」『新選組研究最前線』下)

旧幕より新撰組の者共へ勤功の浅深に随ひ夫々相応の格式扶持方等使わすべきの趣に候処、前書監物等同志の者共え来り、勤王の一途の志願を以て家産を廃止旧来恩顧お主家脱走身分にこれあり候処、今更徳川家の扶助を受け候ては二君に仕るに相成り、且勤王の素願に相戻り不本意の旨趣主張致し候得共、同僚議論居合せ申さず、同志決議の上断然新撰組離局致し其の後山陵御衛士と相成り・・・
(明治3)庚午3月17日付弁官御役所宛弘前藩北原将吾郎による御届の写し
(「毛内良胤(有之介)青雲志録」『新選組研究最前線』下)

新選組は幕府の為に尽力なす事不容易と雖も、其所業残忍酷烈甚しく、正義の有志の聞へある者を屠り、或は之を収縛し、追々勢焔を張り、幕威を負担し、暴威を奮ひ、人心・・。会候篤く之を執政し、不日幕臣に列するの内命の聞へあれば、伊東甲子太郎武明は舎弟三樹三郎、篠原秦之進、服部三郎兵衛、新井忠雄、藤堂平助、阿部十郎、加納〇雄、清原清、富山弥兵衛、橋本会介、毛内監物、中西昇、内海威郎及び近頃頻りに同盟を求め斎藤一等と会議を尽くし離隊の評決に及び・・・・
伊藤甲子太郎は先きに新選組に入隊すといえども其隊長に座す近藤勇土方歳三等無知蒙昧の匹夫にして憐情賢愚の差別弁えなく之を説く共容れす幕威に誇り種々の暴行なる事日を追て増長するのみ。伊東は深く之れを憂ひ、目前に其惨状見るに忍びず且つは其武かに属するを愧ちて去る。四月離隊して山陵の衛士を願意して素志を立るに至り又追々伊東の誠意を慕ひ離隊して同志を請て来る者多し。
明治22年脱稿「新撰組始末記 一名壬生浪士始末記」(『野史台維新史料叢書』30)

同二十六日夜、伊東・余、七条下る近藤勇寓所に罷越し、同隊土方歳三座中にて天下の形勢を縷々論ず。両名は只徳川の勢を論ずるの外他なし。余が輩は勤王の事を討論すと雖も、近藤土方素より幕心の者にて更に服せず、依て伊東・余、爰に光明(ママ)天皇の衛士とならん事を弁論す。然るに両名疑惑を生じ分離する事を許さず。依て亦翌二十七日夜、余が輩罷越し、今夕彼等服せんずば首足処を異にせんと憤心、頭髪を侵すの勢にて議論すれば、猶以て分離を沮んで服さず。併し彼等両名は徳川の成敗を知らず。勤王の趣意を解せず。唯一武道を以て人を制する而違。是の故に終に余吾輩の術中に陥入り、分離論に服す。

泉山塔頭戒光寺堪(ママ)然長老勤王の志あり。余此人と兼て申合す。同僧を以て、則慶応三年卯三月十日、伝奏の命を以て光明(ママ)天皇御陵衛士拝任す。之れに依て俄に新選組を去て、五條橋詰の寺中に寓す。
「秦林親日記」(『維新日乗纂輯』第三)

・・・それより帰京着早々近藤勇に談判に及びましたのは、唯分離の一段を論じたのであります。併しながら、其分離のことは容易に許さず、同組を出る者は悉く斬って仕舞う。なかなか分離はさせぬうち、遂に自分から分離をしまして、東山の高台寺中に屯集しました。此際、東山泉涌寺の戒光寺長老が尽力に依て、柳原伝奏へ戒光寺湛念長老より私共の身体に付、建白書が出ました。依て朝命伝奏より御達しありて泉山御陵衛士を拝任せられました。其人名は此通り。
元御陵衛士人名
伊東甲子太郎 鈴木三樹三郎 秦秦之進 加納道之助 新井陸之助
毛内有之助 阿部十郎 服部三郎兵衛 藤堂平助
同衛士随従同志
富山弥兵衛 佐野七五三之助 茨木司 中村五郎 富永十郎 清川直枝 佐原太郎 江田小太郎 内海次郎
明治32年1月14日 秦林親談 (『史談会速記録』13巻 p558-559)

慶応三年卯参月、泉涌寺塔中四位戒光寺湛然長老、かねがね私共の勤王の志を深く察せられ、其頃、伝奏の柳原に就て、湛念長老より私共の身体のことを建白に及び、伝奏より御達しに、泉山御陵衛士申付候事、但し表札は禁裏衛士、幕は菊の紋、提灯も菊の紋を賜り候。

此時衛士人名、衛士長伊東甲子太郎武明、鈴木三樹三郎忠良、篠原秦之進秦林親、加納鷲尾道広、服部三郎兵衛武明、毛内有之助(又監物とも云う)、藤堂平助、佐野七五三助、新井陸之助一業、阿部十郎隆明、、富山弥兵衛、内海次郎、橋本皆助也。此者は衛士を脱走、紀州高野山の義兵となり、御一新の初め軍務官の判事水野八郎と改名。

衛士随従のものは、茨木司、中村五郎、佐原太郎、富永十郎、江田小太郎にて、京都会津邸にて切腹申付けられたもの左に、茨木司、中村五郎、佐野七五三助、富永十郎。佐原太郎は五條橋下辺にて戦死致した。 
明治32年1月27日 秦林親談 (『史談会速記録』14巻 p173)

・・・それから伊東と謀りまして、漸く其事が成就いたしまして、そうして分離致しましたのが卯の年であるから、戊辰の前年である。所がなかなか其近藤勇は奸智に長けた男でございますから、容易に分離致しますることは出来ませぬのである、何分其生計の道が立ちませぬから、近藤はどうしても諸藩の嫌疑を受けまして、諸藩の悪しみを受けて居る、新撰組は諸藩に入るべからざるものであるから、此処にお前と一緒に居った所が諸藩の様子を探知することが到底六ヵ敷い、是は吾々が一書に物を引立てまして分離したことに表面を見せて内心はお前の為めに尽すからと、近藤を欺いたのです。それで出るに付きまして非常に困難でありました。
明治32年6月2日 阿部隆明談 (『史談会速記録』15巻 p382-383)

元と私共が新撰組に入りましたという趣意は、私は其時分大坂に居りまして、新撰組というものは、勤王家の集まりであるということを承りまして、夫故に京師に上りまして新撰組に入りました。所が大に反対を致して居りまして、近藤勇の趣意と申しますものは、詰りこれから幕臣となって幕府の為に尽すというまでのことでございまして、其挙動というものは昔の山賊のようでございまして、動もすれば直ぐに自分の意に充ちませぬとか、或は反対の見込のあると考えますると、夫を密かに斬殺するというようなことで甚だ危険でございました。
 明治33年3月17日 阿部隆明談 (『史談会速記録』15巻 p382-383)

其後、伊東及び同士の者は当分食客いたしまして、京阪或は近畿地方を奔走しまして、汎く形勢を視察し、説くに勤王のことを以てし、無二の者を集め度存じましても、諸浪士にて真の勤王の者はなく、糊口を潤うす為にて、同士を申込者あるが、ことを為そうと云う者がない。其内、三四ヶ月も経つと同盟せねばならぬようになって、新撰組にとうとう同盟致しましたのである。会津の諏訪や手代木直右衛門や種々な人にも逢ったが、将軍家上洛、長州征伐の件も、尾張老公御名代にて相済んだが、再び征討というと将軍家の御上洛になったので、これは甚だ吾輩の意ではないことであると云うた。伊東甲子太郎という人は書見もあり、中々出来たんであるけれども、新選組に一旦同盟したものを他に出すと云うことは内規に於てないが、伊東は近藤と熟談の結果で、吾輩十一名は先帝の山陵衛士の名目拝命の件は履歴に認め置ましたにより、はぶきます。
明治34年4月13日 加納道広談 (『史談会速記録』15巻 p89-90)

<ヒロ>
上掲の秦林親日記によれば、孝明天皇の御陵のある泉涌寺の塔頭戒光寺(御陵衛士墓所があるお寺でもある)の長老(泉涌寺の前長老)湛念が尊王の志あつく、篠原が堪念に頼んで朝廷にかけあってもらい、拝命にいたったそうです。(戒光寺・湛念、御陵衛士との関わりはこちら

そうなると、伊東と新井が、九州出張中で、大宰府の激派公卿(禁門の政変で追われた公卿)や護衛の志士と面会し新選組からの分離計画について理解を得ようとしたり、長崎に9泊もしてたりという間に、御陵衛士拝命の働きかけを篠原らが行うという分担があったということになります。

秦林親日記は篠原の後年になってからの回想録(息子が書いたとの説もあり)で、自分がひとりで堪念にかけあったかのように書いていますが、『史談会速記録』の阿部十郎の談話や毛内有之助関連の同時代書間(「毛内監物青雲志録」)からは、彼らも湛念/戒光寺とは懇意であったようで、同志力を合わせての御陵衛士拝命だったのではないでしょうか。

さて、御陵衛士は形式上は幕府山陵奉行の配下となっています。ところが、山陵奉行戸田忠至(大和守)は実は朝廷から任命されており、ほんの少しですが給与を下賜されているので、いってみれば朝臣でもある、特殊なポストにありました(朝廷から任命された禁裏守衛総督だった慶喜の立場と似ているかも???)。朝幕双方に深い関りをもつ山陵奉行配下となることは、一和同心という伊東の基本方針ともよく合います。このことも、御陵衛士拝命運動を展開するときに頭にあったのではと考えています。

また、『京都守護職始末』によれば戸田忠至は会津藩の長沼流軍学を学び、かつ昔から戸田家と会津松平家とは親密な関係だったようです。文久2年9月に容保が守護職を拝命してから、容保は家老田中土佐らを京都に先発させて下準備を行わせましたが、会津藩は公家と姻戚関係になく、朝廷の事情をうかがい知ることが困難でした。そこで、土佐が頼ったのが忠至だったのですが、忠至は宗家である議奏・正親町三条実愛(当時は公武合体派)を紹介し、恐らくそれがきっかけで、土佐らは三条実美とも会見することができました。新選組を預かる会津藩と山陵奉行である忠至との良好な関係も、伊東らの衛士拝命を後押ししたような気がします。

ところでこの御陵衛士の拝命時期について、一般に秦林親日記の3月10日といわれていますが、それを裏付ける史料は未見です。明治2年と3年に津軽/弘前藩が提出した公的書類に「同志決議の上断然新撰組離局致し其の後山陵御衛士と相成り・・・」とあり、はっきりと新選組分離後の拝命だとされています。津軽藩では、藩士葛巻行雄が、慶応4年2月に三樹三郎を始めとする御陵衛士関係者を訪れて集めた情報を毛内の母に知らせており、また、翌明治2年春頃から、戒光寺の墓地への墓碑建立⇒香炉・手水鉢の奉納について新井たちと行き来しています。新選組離脱・御陵衛士拝命の経緯を旧御陵衛士に確認する機会はあったと想像できるし、御陵衛士拝命の時期について偽る理由もなさそうですよね。後年の阿部の証言では「伊東甲子太郎が新井忠雄と申します者を連れまして、九州に行きまして漸く分離の策を立てました」、加納の証言では「伊東は近藤と熟談の結果で」分離した、さらに衛士らと交友のあった西村兼文の『新撰組始末記』では「伊東徒は(近藤との会談時に)山陵の衛士を希望し、勤王一偏に尽力せんことを請う」となっており、御陵衛士の拝命は分離後だった可能性もありうるかも?と思います。

<参考>『史談会速記録』、『京都守護職始末』、『伯父甲子太郎武明・岳父鈴木三樹三郎』、『維新日乗纂輯』第三、『野史台維新史料叢書』30、『新選組研究最前線』下

関連:「九州行道中記」@衛士館、御陵衛士日誌「慶応3年(2)」@衛士館
2001.4.14、2004.2.15

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