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年号 (西暦) |
歳 | できごと |
天保8 (1837) |
1 | 常陸志筑藩郷目付鈴木専右衛門次男として誕生。(兄大蔵=のちの伊東甲子太郎)。幼名不明。長じて多門。 |
天保14 (1843) |
8 | 妹よし(のち須磨)誕生 |
時期不明 | 父、専右衛門、家老と対立して脱藩・一家志筑追放:父が家老の横手惣蔵と対立し、閉門・蟄居を申し付けられる。しかし、父は閉門中に脱藩してしまった(出家して高野山へ)。本来ならお家断絶となるところだったが、甲子太郎(当時大蔵を名乗る)が家督相続を許される。しかし、父が方々に借金をしていたことがわかり、一家は志筑追放となった。(「伯・岳」) 一家は父の祖母の実家(小桜村川俣の桜井家)に身をよせた。三樹三郎(鈴木多門)は兄とともに村塾に通った(「伯・岳」) |
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時期不明 | 兄、甲子太郎(鈴木大蔵)、水戸へ遊学に。三樹三郎(鈴木多門)は残る。(「伯・岳」) | |
時期不明 | 父、専右衛門が、高野山僧侶のとりなしで許されて志筑近郊の高浜村大橋に戻り、村塾を開いて漢籍を教える。(「伯・岳」) | |
時期不明 | 兄、甲子太郎(鈴木大蔵)、水戸から戻り、小井戸に村塾の支塾を開いて漢籍を教える。(「伯・岳」) | |
嘉永5 (1852) |
16 | 父、専右衛門の死。 三樹三郎(鈴木多門)、父の跡を継いで村塾で漢籍を教える。しかし、楠多門丸という旗を掲げて村の子供と合戦ごっこばかりやっていたので、生徒の数が減り、村塾は閉鎖に^^;(「伯・岳」) |
嘉永5〜 文久3 (1852〜 63) |
16 〜 27 |
志筑藩士寺内増右衛門の養子として勤務→離縁→御役御免 (「伯・岳」)
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江戸に出て国事に奔走→村塾の師匠として潜伏→再び江戸へ(「伯・岳」)
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文久3頃 (1863) |
28 | のちの同志と知り合う。 |
元治1 (1864) |
30 | *3月−天狗党の筑波挙兵。 8月−天狗党応援の有志約60名が上野の雁鍋屋に集合。兄・甲子太郎(伊東大蔵)も参加したが久留米の志士古松簡治より忠告を受け、応援に加わることを控える。その兄・甲子太郎に、天狗党の迫る志筑の様子をみるよう依頼されて江戸を出発。 志筑への途上、土浦の桜井旅館で天狗党とかちあうが互いに警戒して言葉を交わさず。 叔父川俣彦三郎を介して、藩に「危急の際なので微力を尽くしたい」と申し出る。許可されて、住宅を与えられ、以来、藩内警備にあたる(藩士として再び取り立てられたようだ。「本堂家家中分限帳」(後述)より)。 侵入のないまま天狗党が去る。(『千代田町史』によれば、実は、志筑藩は天狗党ととりひきをしていた)。 ある日、藩から辞令が下ることになった。天狗党も去った今、志筑に留まるつもりはなく、辞令をもらう前に出奔した方がよいと考え、江戸に向けて出発。 (以上、「伯・岳」) 9月−三木荒二郎、志筑藩より隠居料二俵授かる(「本堂家家中分限帳」)←たぶん、未発表資料。『高台寺党のひとびと』著者の市居浩一氏から教えていただきました。この件についてはいつか現地調査を含めたフォローアップ調査をして、「覚書」にUPしたいです。 10月15日−江戸での新選組隊士募集に応じて、加入希望者として(入隊はしていない)兄・伊東甲子太郎らとともに上洛のため江戸出発。(このとき、三木三郎を名乗る)。 *改名時期は不明だが、兄が上洛を期に改名しており、三樹三郎も同じだったのかもしれない。) 10月27日−一行、京都に着く。甲子太郎(以後、伊東)らとともにはしばらく近藤妾宅に遊食する(『殉難録稿』)*伊東らは遅れて入京した可能性も |
「秦」=「秦林親日記」、「岳」=「岳父鈴木三樹三郎」、
「壬」=「新撰組(壬生浪士)始末記」、『相』=相楽総三とその同志』
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