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三樹三郎の年表(戊辰戦争〜赤報隊〜明治)

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年号
(西暦)
できごと
慶応4
/明治1
(1868)
34 1/1−三樹ら、薩摩藩今出川藩邸で元旦を祝う。(「岳」)
1/2-三樹、三条実美邸で水野丹後に面会。(「岳」)
1/3−・三樹、山科能登之助に連れられ、前侍従綾小路俊実訪問。江州挙兵に協力を求められ、快諾。(「三」)
1/3−鳥羽伏見の戦。三樹ら衛士残党とともに薩摩藩一番隊に属して戦闘、伏見奉行所の新選組を破る。その後鳥羽方面に。城南宮で宿泊。(「秦」・「岳」等)。
1/6−衛士残党、綾小路・山科、及び水口藩士油近錬三郎らと合流(綾小路派)し、総勢20名ほどで京を脱出する。
1/7−綾小路派一行、坂本到着。相楽総三ら薩摩藩江戸浪士達(相楽派)、侍従滋野井公寿と随従の山本太宰ら滋野井組が合流。総勢100名。(「秦」『相』)。一行、守山に入る。守山泊。(「秦」)。
1/8−松尾山で(赤報隊)挙兵に参加
1/15−編成変更。一番隊(先陣)相楽、二番隊(君側)三樹、三番隊(後詰)油川。赤報隊を名乗る。(『相』)新井は二番隊所属だと推測される。濃州路へ進発。
1/22−赤報隊、東海道から信州・甲州方面に進路変更。
1/23−二番隊(綾小路・三樹)、加納に宿泊。加納永井家に大砲献上させる。(『相』)
1/25−二番隊・三番隊(綾小路派)、信州行きを断念し、東海道行きを決める。一番隊(相楽派)に使いを出すが、相楽は拒否。袂を分ってそのまま信州方面に進軍。(『相』)
1/27−綾小路派(二番隊・三番隊)名古屋入り。(『相』)
1/28−綾小路・三樹・油川、前尾張藩主徳川慶勝と面会。大原重徳から綾小路・滋野井に帰還命令。相前後して西郷から三樹に帰京許可の密書が届く。
1/29−先陣の一番隊に帰還命令を出し、綾小路派(二番隊・三番隊)、京都へ向う。名古屋を出発、桑名へ。(『相』)
1/30?−交渉の末、綾小路、東海道総督橋本実梁に面会適い、一行の帰京が了承される。(『相』)
2/1−綾小路派(二番隊・三番隊)、四日市泊。(『相』)
2/3−綾小路派(二番隊・三番隊)、水口泊。(『相』)
2/4−綾小路派(二番隊・三番隊)、大津泊。(『相』)
2/6−三樹・油川、綾小路派(二番隊・三番隊)隊士を率いて入京。(『相』)
2/13−伊東らの遺体を戒光寺に改葬(「毛」)。盛大な葬儀を行う
2/15−赤報隊二番隊・三番隊、稲葉薬師から寺町本満寺に転陣。(「秦」
2/20−三樹・新井・篠原の旧御陵衛士3名、御親兵取締所に呼び出されて逮捕され、阿波徳島藩邸の牢に留置される。(「秦」)
2/21−三樹・新井・篠原、大津の阿波徳島藩本陣に護送されて投獄される。(「秦」)
2/28−三樹・新井・篠原、朝命により?揚り屋に移される。(「秦」)
2/29−三樹・新井・篠原に夜具三枚が支給されるなど待遇改善。(「秦」)
3/7−三樹・新井・篠原、出獄し、薩摩藩預りとなる。三名は今出川薩摩藩邸長屋に。(「秦」)
6/11−三樹・新井・篠原、赦免される。(「秦」)
6/12−三樹・新井・篠原、軍曹・八人扶持をおおせつけられる。(「岳」)
6/15-三樹、江戸出張を命ぜられる。(「岳」)
*市居浩一氏がご子孫から聞かれた話によれば、維新後しばらく、三樹は家族とともに江戸の志筑藩邸に住んでいたそうである。(この時期からか)
9/1−三樹、勅使の警衛兵を率いての帰京を命ぜられる。(「岳」)
明治2
(1869)
35 3月-兵部官東下に随従して再び江戸に。
7月-弾正台少巡察に任命される。
8月-奥州に巡察に出る。
11月−戒光寺墓地の御陵衛士墓碑建立。
明治3
(1880)
36 3月−軍曹職廃止に伴い東京府貴族士族に叙せられ、終身4人扶持を下賜される。
明治7
(1884)
40
明治11
(1888)
44 従7位。
明治15
(1892)
48 勲5等。
明治17
(1894)
50 明治14年には天皇巡幸警備を指揮した。
明治19
(1896)
52 明治18年に福島県二等属をもって退職。茨城県に隠居して余生を送った。晩年になっても晩酌を欠かさなかったという。また、幕末の頃の恩人・同志で故人となった人々の名を父母の名とともに紙片に記して仏壇に張り、朝夕礼拝を欠かさなかったそうである。市居氏によれば、伊東、富山、武川、「藤堂・毛内・茨城(服部?)其他義士諸君」、「故会津邸於冤死諸君(茨木ら)」ら同志のほか、芳野新一郎(桜陰)、大久保利通、西郷隆盛、桐野利秋らの名前が記されているそうだ。(「岳父鈴木三樹三郎」には大原重徳父子の名もあるとされている)。三樹三郎は謙虚で維新期の自慢話などはしなかったという。日記はつけていたが、散逸してしまい、数年分が残っているだけだそうでだ。
大正7
(1899)
81 11/18、兄甲子太郎が従五位を贈位。そのことがこのころ日記に散見されるそうである(命日の贈位ですね・・・)。
大正8
(1901)
82 7/11、老衰のため永眠。享年82歳。

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「墓」=新井の墓碑、「秦」=「秦林親日記」、「岳」=「岳父鈴木三樹三郎」、「壬」=「新撰組(壬生浪士)始末記」、『相』=相楽総三とその同志』


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