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九州行道中記について



慶応3年1月から3月にかけて、新選組参謀伊東甲子太郎は同志の一人、新井忠雄とともに九州に遊説にでかけました。実はこのとき伊東らは、自分たちの論を通すための新選組分離を決意していました。九州行きはその布石だったのです。

1月18日に京都を出発し、大目付永井尚志とともに蒸気船(幕府御用船神速丸)に乗って九州入りしますが、永井と別れた後は、大宰府で五卿(禁門の政変で都落ちをした尊王激派公卿たち)警護の志士たち(水野丹後、土方久元、真木外記ら)や土佐の中岡慎太郎らに会い、京都の情勢、国事に関する持論、そして新選組分離について語っています。新選組であるということから嫌疑を受け、ときには謀殺の危険も感じるほどで、真意が伝わらぬことに悔しい思いも随分したようです。また、小倉戦争の避難民の惨状に落涙したり、長崎に9泊もしたりと、いろいろな面で刺激の多いであったようです。長崎では長崎奉行から300両を渡されており、このへんも探究すると面白そうです。また、フルベッキと出会ったのもこの長崎滞在中ではないかと思っています。

一方、京都に残った同志の篠原秦之進らは、新選組分離後に備えて、前年の慶応2年12月25日に亡くなった孝明天皇の御陵衛士拝命を働きかけていました。

伊東らは3月12日に帰京しましたが、東山泉涌寺(歴代天皇の墓所であり、孝明天皇の御陵もある)塔中戒光寺の長老湛念の尽力もあり、3月10日には御陵衛士の拝命の沙汰が下っていました。帰京後、伊東は即座に分離に向けた活動を開始し、新選組トップの近藤勇・土方歳三や、新選組を預かる京都守護職公用方と面談して分離の諒承をとりつけました。分離後の宿舎がみつからず途方に暮れたことをのぞいては分離は円満に進んだようで(激論して分離というのとは少し違います)、伊東とその同志併せて10数名は、3月20日に新選組屯所を出て三条城安寺に移りました。御陵衛士(後世にいう「高台寺党」)の誕生です。

九州行道中記は、伊東が京都を出発した1月18日から新選組屯所を出た翌日の3月21日までにつけた、貴重な記録です。

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