2. 井伊直弼 (2003/2/10) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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◆埋木舎【うもれぎのや】 桜田門外の変で暗殺された大老井伊直弼【いい・なおすけ】は、文化12年(1815)、11代彦根藩主直中【なおなか】の14男として、彦根城内の欅御殿【けやき・ごてん】で生まれました。母は側室の富。父・直中はすでに隠居しており、正室の子・直亮【なおあき】が12代藩主に就いていました。隠居した先代の晩年の子である直弼は、他家に養子にいくか、そうでなければ部屋住となって捨扶持で一生を送る運命でした。 直弼は5歳で母を失い、天保2年(1831)に17歳で父を失うと、藩の定めにより、300俵の捨扶持を与えられて城外の屋敷に移り住みました。屋敷といっても中流藩士並の住宅で、御殿と比べると格段の差でした。若くして先の見えない部屋住の身となった直弼は、この頃、こんな歌を詠んでいます。
直弼は自分の陋屋を「埋木舎」と名づけ、ひたすら文武の修養に励みました。 埋木舎には柳が植えられていました。直弼は柳を非常に愛し、号にも「柳王舎」を使うことが多かったそうです。風に逆らわず、しかしどんな風に吹かれても決して折れることのない自然体のしなやかな柳に自らを重ねていたのでしょうか。柳王は「やなぎわ」と読むそうですが「りゅうおう(竜王)」とも読めますので、抑えきれない覇気を秘めた号ではないか・・・ついつい深読みをしてしまいます。 ◆養子入りに失敗 それから3年後の天保5年(1833)7月、20歳の直弼にチャンスが訪れました。当主直亮から、末弟直恭とともに江戸へ呼び出され、大名の養子口を探すことになったのです。ところが、早々に養子先の決まった弟と違い、直弼の方はとうとう養子先が見つかりませんでした。 失意の直弼は、世に出ることをあきらめ、生涯部屋住みとして埋木舎に身を埋める覚悟を決めました。
翌天保6年、埋木舎に戻った直弼は、禅、居合、兵学、茶道、国学、和歌など、「なすべき業」の修業に打ち込みました。直弼は非常に多才で、いずれもその道を極めたそうです。この時期に知り合い、国学・和歌の師として直弼が傾倒した人物が、後に直弼の腹心として活躍する長野主膳義言です。 ◆思いがけず彦根藩世継に 17歳から15年続いた直弼の部屋住時代は、弘化3年(1846)に突然終わりを告げました。世子直元の急逝により、32歳にして思いもかけず当主直亮の養嗣子に迎えられたのです。他の兄弟は早逝あるいは養子に出ており、14男の直弼だけが彦根に残っていたためでした。部屋住の身分から一転して大藩彦根藩の後継として世に出た直弼はその感激を次のように認めています。
◆「柳暁覚翁」 江戸城登城途中の直弼が、藩邸から至近距離の桜田門外で水戸脱藩浪士らに暗殺されたのは、それから14年後の安政7/万延元年(1860)3月3日。享年46歳でした。 豪徳寺に埋葬された直弼の戒名は「宗観院柳暁覚翁」といいます。安政2年(1855)の出府時に自ら選んで側役三浦十左衛門に託したものだそうです。江戸では水戸の徳川斉昭と溜間詰大名の対立が先鋭化し、「御厚恩」を受けた幕府は屋台骨が揺らいでいました。直弼は、このとき、自分を日本の夜明けに目覚めて自然体で風に立ち向かう柳と擬し、死をも辞さない覚悟で時局に臨む決意を固めていたような気がします。 暗殺当日の早朝、直弼の元には水戸脱藩者の襲撃を警告する封書が届いていました。封書を読んだ直弼は、しかし、誰にも知らせず、幕府の定め以上に警護の藩士を増やすこともなく、自然体で屋敷を出たのでした。 関連: 「開国開城」:戊午の密勅と安政の大獄、勅書返納問題と桜田門外の変 「志士詩歌」:桜田門外の変 *彦根城・埋木舎の写真は彦根城MAP@ひこねっと |
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表:井伊直弼の兄弟
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