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嘉永6(1853)〜文久2(1862)

開国開城6: 勅書返納問題と桜田門外の変
(安政6〜7)

<要約>

安政の大獄により、水戸藩は特に厳しい処分を受け、さらに密勅の返納をめぐって尊攘派が二派に分裂して対立した(勅書返納問題)。藩論が返納と決まり、反対派(激派)への弾圧が始まると、追い詰められた激派の中心人物たちは脱藩し、薩摩藩尊攘激派の一部とともに、幕政批判と直弼弾劾を目的とする大老井伊直弼の暗殺を決行した(桜田門外の変)。実行者は江戸で井伊を倒し、薩摩兵を京都に迎え、朝廷を擁して幕府に改革を迫ることを期待していたが、薩摩藩の自重で連携は実現しなかった

白昼、江戸城門外で幕閣最高責任者が暗殺されたことにより、幕府の権威は一気に凋落した。同時に、無断調印に激怒した天皇の下した勅書が幕政を揺るがす事態に発展したことは、勅許奏請で糸口のついた天皇の政治化をさらに進めることとなった。

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勅書返納問題と桜田門外の変
(安政7/1860)

将軍:家茂 大老:井伊直弼   首席老中:久世広周、 老中:安藤信正
天皇:孝明孝明天皇 関白:九条尚忠

安政7(万延元)年3月、安政の大獄で過酷な処分を受けた水戸藩の浪士たちが、江戸城桜田門外で大老・井伊直弼を暗殺した。「桜田門外の変」である。

◆桜田門外の変の背景:勅書返納問題

水戸藩は、幕府に勅書(戊午の密勅)返納を命じられて以来、藩庁を中心とする返納派(鎮派)返納反対派(激派)に分かれて対立していた。幕府は朝廷の力を借りて勅書を返納させることにし、安政6年末、朝廷は勅書返納を命ずる勅書を下賜した。藩論は幕府ではなく朝廷に直接返す返納論でまとまったが、これに対して激派の指導者らは返納を実力阻止しようと、同志を募って水戸と江戸の間にある長岡に屯集した(長岡勢)。藩庁は激派鎮圧にのりだし、謹慎中の斉昭も返納阻止は君命に背くと説得したので、長岡勢は解散した。激派の主だった者は江戸に向けて脱出し、その数日後に桜田門外の変を起こした

◆水戸藩激派と薩摩藩激派との連携

実は桜田門外の井伊襲撃には薩摩浪士(有村冶左衛門)が一名加わっており、井伊の首級を挙げたのも有村だった。実は、井伊暗殺(斬奸)は水戸・薩摩両藩士の共同作戦として練られてきたのである

薩摩藩はもともと前藩主島津斉彬が一橋慶喜支持であり、反井伊という土壌があった。安政の大獄が始まってまもなく、在府の水薩藩士のあいだで、「水戸藩士が井伊を暗殺したら、薩摩の同志が脱藩・東上し、先君(斉彬)の遺志を継いで京都を守護する」という盟約が成った。彼らの「斬奸」趣意は幕政の改造により王事に尽くすことで、江戸で井伊を倒し、薩摩兵を京都に迎え、朝廷を擁して幕府に改革を迫ることを期待していた。しかし、薩摩藩庁や大久保一蔵(利通)が尊攘激派の動きを抑えたので、藩を挙げての連携は実現しなかった。(薩摩藩は、事変の起ったとき、藩主茂久は参勤交替で江戸に向かう途中だったが、報をきいてひきかえしている)。

◆桜田門外の変

安政7(万延元)年3月3日、井伊大老は登城途中、江戸城桜田門外で18名水戸・薩摩浪士に襲撃され、首級を挙げられた。彦根側は死者4名、負傷者15名、浪士側襲撃者は闘死1名、重傷を負って自尽4名、自訴8名(のち傷により死亡2名、死罪6名)、逃走5名()である。また、襲撃には加わらず、薩摩挙兵を期待して京阪に向かった者も捕吏に囲まれて自尽、捕縛されて獄中死などの最期を迎えた。

志士詩歌><余話「桜田門牛の変?!」

◆幕府の水戸藩処置

井伊暗殺後、幕閣の実権は安藤信正と久世広周に移った。当初、幕閣は水戸藩に対して、幕威を立てるため、勅書返納を厳命して違背すれば取り潰しという策を考えていたようだが、騒乱を起こしてまで強硬策をとる愚をさとり、いつのまにか沙汰やみとなった。これは、幕威の回復策として井伊的弾圧策をやめて、公武一和を進めることとした安藤・久世政権が、むしろ、朝廷や尊攘派にシンパの多い斉昭の謹慎を解いて朝幕関係改善の助けとする方がよいと判断したかのようである・・・とされている。

◆幕府の権威失墜

水戸浪士らの斬奸状は、幕府の条約調印における朝廷軽視、斉昭処分、安政の大獄を非難しているが、「天下の巨賊」井伊を倒すものであり、幕府に敵対するものではないことが強調されていた。しかし、大老が簡単に暗殺されたことにより、幕府の権威は大きく失墜し、これに反比例するように朝廷や諸藩の発言力が増していった
じゅんび中

水戸藩処分寛大を主張容保は水戸藩処分について幕府に対して寛大を主張し、将軍にも建議した。将軍は容保の意見を採用して、水戸藩門罪はとりやめになったという。さらに、容保のはからいを賞して、官位を昇進させた。
将軍家と水戸家の和解を周旋:一方、容保は徳川宗家と水戸家の和解の周旋にも務めた。家臣の外島(家老)や秋月梯次郎(のちの公用人)を水戸の武田耕雲斎(家老)・原市之進(のちの徳川慶喜側近)に遣わし、無血の勅書返納に力を尽くした。この周旋の功を賞し、将軍は容保に以後ときどき登城して幕閣と相談するよう命じた。水戸藩処分に関する容保の奔走は、容保が将軍の信任を受け、幕府の役人に重きを置かれる端緒となったという。

参照:「守護職事件簿」「前史」「桜田門外の変と容保の発言力向上」

松平容保と水戸藩:実は、松平容保の実家である高須松平家は、水戸徳川家と縁が深い。容保の祖父にあたる9代藩主義和は、水戸藩6代藩主徳川治保の次男であり、実父義健の正室は水戸藩9代藩主徳川斉昭の姉だった。さらに、会津松平家にとっても、先代の藩主容敬は高須9代藩主義和の三男、すなわち水戸藩6代藩主徳川治保の孫にあたる。

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2000/5/20

<主な参考文献>
『逸事史補・守護職小史』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『京都守護職始末』・『会津松平家譜』・『幕末水戸藩の苦悩』・『茨城県の歴史』・『茨城県幕末年表』・『徳川慶喜増補版』・『開国と幕末政治』・『90分でわかる幕末維新の読み方』

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