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慶応3年12月7日(868年1月1日)


天満屋事件

1868年1日1日(慶応3年12月7日)、坂本竜馬と中岡慎太郎の暗殺を紀州藩が見廻り組に命じたと思った海援隊・陸援隊の残党16名が、紀州藩周旋方の三浦休太郎を天満屋に襲撃しました。


新選組の7人が、当日、三浦の宿に来て「会津候の命令で警護に来た」といったが、三浦は不在だったそうです。居合わせた三宅精一が、三浦の顔を覚えさせるために、三浦の帰宅を急がせて(顔合わせの)酒宴を行ったそうです。(『南紀徳川史』-「幕末史研究}No30の引用箇所より)

さて、海援隊・陸援隊の残党は、斎藤一を始めとする警護の新選組隊士と乱闘となり、新選組は三浦の警護に成功し、相手方の中井庄五郎を討取りましたが、隊士宮川信吉(近藤勇の甥)が討死し、もう一名も重傷を負って後日、死亡しました。(『新撰組(壬生浪士)始末記』ほか)

<ヒロ>
斉藤一には御陵衛士隊脱走後、三浦邸に潜伏しており、油小路事件当日に呼び出されたのだという説があります。これは、近藤が、三浦のところに潜伏させていた「二郎」を急用のため、無断で呼び戻した(11月18日付け三浦宛近藤書簡-『新選組日誌』の引用箇所より)ことが根拠となっています。ただし、この書簡は記された年が不明。「二郎」は山口二郎(=斎藤一)のことではないかとする研究家は、当然、慶3年の書簡だとしています。斎藤の反復以来、紀州藩に潜伏させておき、急用=伊東暗殺のため呼び戻したというのです。

これに対し、そのような見方は短絡的であるとする研究家の方もいます。その根拠が上記『南紀徳川史』という史料の引用部分で、三浦の護衛の隊士と三浦は相互に面識がなかったとし、斎藤の三浦邸潜伏はなかった(二郎=斎藤一はおかしい)といいます。

<参考文献>『新選組史料集コンパクト版』、『新選組日誌上』(新人物往来社)、「幕末史研究」(三十一人会)

(2000/1/1)



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