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★文久2年春の島津久光率兵上京(こちら〜慶応4年春江戸開城までの京都を中心とした幕末政治(と衛士)の々の動きを1日ずつ?更新。(和暦の方は月の満ち欠けに呼応していて、たとえば15日は満月となります)
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1月の「今日の幕末京都&折々の詩歌」

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1月の幕末京都の過去ログリスト (全体の過去ログは幕末京都日誌に整理)

文久2(1863) 文久3(1864) 元治1(1865) 慶応2(1866)  慶応3/4(1868)
文久2年11-12月(1863年1月)
◆◇11/12(1863.1.1)【京】薩摩藩と守護職;島津久光を守護職にとの朝命/【江】政事総裁職松平春嶽、後見職一橋慶喜に老中板倉勝静の進退を相談/薩摩藩高崎猪太郎(高崎五六)、山内容堂に長州藩士横浜襲撃計画を告げる/清河八郎、春嶽に上書/
◆11/13(1.2)【江】高杉晋作・久坂玄瑞ら長州藩士11名、世子毛利定広の説得で横浜襲撃中止/蒲田梅屋敷事件:長州藩周布政之助、容堂を誹謗/攘夷奉勅:)鳥取藩主池田慶徳、慶喜に攘夷入説
◆11/14(1.3)【江】幕薩提携へ:薩藩岩下佐次右衛門・吉井幸輔、松平春嶽に横井小楠に感服したと述べ、島津久光上京を促すよう依頼/蒲田梅屋敷:土佐藩士、周布引渡しを求める
◆11/15(1.4)【江】攘夷奉勅:慶喜、再度の後見職辞表提出/【長】長井雅楽の切腹を決定。/【京】長野主膳妾村山タカ、生き晒し。タカ息子多田帯刀斬殺
◆11/16(1.5)【京】薩摩と守護職:朝廷、容保に久光と力を合わせるようにとの沙汰/【江】和宮の来秋上洛の達書が届く
◆11/17(1.6)【江】攘夷奉勅:慶喜、春嶽の説得に「攘夷奉勅は浮浪の姦計にはまるだけ」と応ぜず。
◆11/18(1.7)【江】板倉暗殺:幕閣、越前藩に容堂に壮士説得を依頼するよう申入れ。
◆11/19(1.8)【江】横井小楠、勝海舟に「攘夷は興国の基を言に似たり」と返答/板倉暗殺(3)越前藩、壮士説得を容堂に依頼/
◆11/20(1.9)【江】幕府、故井伊直弼ら安政大獄関係閣老に追罰(老中格小笠原長行主導)
◆11/22(1.11)【江】薩摩と守護職:容保、久光の守護職任命に不同意/老中板倉再登城/水戸藩主徳川慶篤、武田耕雲斎、大場一真斎らを家老に復職させる。
◆11/23(1.12)【江】安政の大獄関係諸有司に追罰。和宮の号を旧に復する/大久保一翁、免職・差し控え。
◆11/24(1.13)【江】老中板倉・水野・小笠原、慶喜登城を説得
◆11/25(1.14)【江】幕薩提携へ(2)フランス軍艦が大坂入港して条約勅許を迫るという風聞を根拠に、老中板倉・小笠原、容保と旗本精鋭の急西上と慶喜・将軍の率兵上京を上書/会津藩外島機兵衛、大目付岡部長常を訪問し、京都町奉行永井尚志との共同意見として慶喜と重職の即時上洛を訴える。/老中格小笠原長行ら、慶喜に登城を説得/幕府、水戸藩に激派林忠左衛門らの放免を命ずる/
◆11/26(1.15)【江】慶喜、台命により登城/幕薩提携(3)幕府、慶喜・容保・春嶽・容堂の即時海路上京を評議/容堂、春嶽と上京後の方針を協議。小楠、容堂に薩摩藩を含めた京都会議における国是決定論を説明。容保、重職早期上洛と久光守護職反対を繰返し主張し、春嶽・容堂に「倦まれ」る/
◆11/27(1.16)【江】攘夷奉勅(30)別勅使三条実美・姉小路公知の江戸城入城・攘夷の勅諚と親兵設置の沙汰を伝宣
◆11/28(1.17)【江】幕薩提携(4)慶喜、春嶽に2万の大兵を率いての上京を示唆・春嶽、即答せず/安政大獄刑死者6名(安島帯刀・橋本左内・吉田松陰ら)の墓碑建立が赦される
◆11/29(1.18)【江】幕薩提携:)春嶽、幕薩連合による公武合体推進を建議し、老中・慶喜、同意する。/攘夷奉勅:慶喜、勅使饗応。勅使の攘夷布告要請を拒否/勅使、摂海防禦名目の慶喜上坂計画に即答を避ける/
◆11/30(1.19)【江】幕薩提携:)幕議、久光の上洛を促すことに決まる。薩藩高崎猪太郎(高崎五六)が上洛を促すため薩摩へ下る計画/慶喜・小笠原長行(老中格)海路上京内定
◆12/1(1.20)【江】幕薩提携:春嶽、薩摩藩高崎五六に、近衛忠煕・青蓮院宮・島津久光への書簡を託す。/薩摩藩と守護職: 幕府は久光の守護職任命に幕府は異議はないが、尾張・会津・長州の反対により、来春将軍上洛時まで発表を見合わせるとを伝える/前尾張藩主徳川慶勝に先発上京・老中格小笠原に上坂の幕命
◆12/2(1.21)【江】薩摩藩と守護職:)容保、久光と協力して京都守護するようにとの内沙汰を幕府に示す。
◆12/3(1.22)【江】攘夷奉勅:勅使と春嶽の会見(慶喜欠席)。春嶽、攘夷布告に同意/勅使、慶喜の上坂に同意/薩摩藩と守護職:勅使三条、久光の守護職任命の幕議に驚く/横井小楠、攘夷三策を建議/幕府、軍制改革(翌年1/中旬めどの「歩兵組」編制)
◆12/4(1.23)【江】攘夷奉勅:勅使、早々に攘夷・親兵設置を決定・布告し、攘夷の策略・期限を翌春までに言上するようとの沙汰を伝える/幕府、慶喜に大坂警備視察のための西上の幕命
◆12/5(1.24)【江】攘夷奉勅:幕府、攘夷を奉答・親兵設置は拒否(おさらい:攘夷奉勅vs開国上奏))/幕府、水戸藩に勅諚(戊午の密勅)奉承を許す。/土佐の間崎哲馬・坂本龍馬・近藤翔次郎、春嶽に摂海防禦策を上申
◆12/6(1.25)【江】土佐藩武市半平太、越前藩邸を訪問し、将軍の速やかな上洛を主張
◆12/7(1.26)【江】勅使、親兵設置要求を貫徹せぬまま、江戸を出立。土佐藩主豊範出立/将軍、京都守護職・会津藩主松平容保に京都出発の暇を与える(&容保上洛の遅れの経緯)
◆◇12/8(1.27)【江】慶喜、水戸藩家老武田耕雲斎ら借用申し入れ/板倉老中、容保に翌春早々の将軍上洛・直接守衛を約束(全権委任との交換条件)/容堂、幕府に長州藩士による外国人襲撃を警告/幕議、浪士組お抱えを決定/
◆◇12/9(1.28)【京】朝廷に国事掛設置/【薩】将軍上洛延期運動(1)大久保利通・吉井幸輔、京都へ【江】容保、陸路上京/慶喜15日の陸路上坂・小笠原16日の海路上坂決定/長州藩世子毛利定広江戸出立/松平主税助、浪士取扱に。容堂、春嶽に浪士募集を促す/赤穂藩の家老暗殺事件/
◆12/10(1.29)【江】尾張藩田宮弥太郎、小楠の京都会議策に感服/勝海舟に海路上坂の幕命
◆12/11(1.30)【江】春嶽に来春早々の上京の内命/耕雲斎に水戸藩士数名引率・慶喜に随従上坂の幕命/清河八郎、水戸出立
◆12/12(1.31)【江】長州藩士高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多ら、品川御殿山英国公使館焼き討ち/勝海舟、春嶽に海路を説明/幕府、塩谷・安井・芳野登用

関連:■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題 「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」幕末日誌文久2 ■テーマ別文久2:「第2の勅使(攘夷督促&親兵設置)東下」「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」「親兵設置問題「容保VS幕閣・春嶽[長州世子毛利定広奉勅東下」 「大久保一翁」 「横井小楠」「小笠原長行」守護職日誌文久2 ■薩摩藩日誌文久2 ■越前藩日誌文久2 ■長州藩日誌文久2

文久3年11-12月(1864年1月)
◆11/22(1864.1.1)【京】中根雪江、小松帯刀訪問。高村新兵衛を慶喜に遣わす
◆11/23(1.2)【京】水戸藩主名代松平昭訓死去。
◆11/26(1.5)【京】参与会議へ(14)将軍後見職慶喜入京。松平春嶽、慶喜と会談/一翁の書簡【江】将軍再上洛(13)永井、東下して将軍上洛を説く/幕議将軍上洛を決定/入京嘆願(11)長州家老井原主計、朝廷に入京嘆願/(板倉勝静罷免問題もこちら)
◆11/27(1.6)【京】長州嘆願(12)井原家老、伏見に到着/【江】将軍上洛を12月下旬と発表
◆11/28(1.7)【京】長州嘆願(13)後見職邸会議:慶喜・春嶽・宗城、会藩公用方秋月悌次郎の強硬意見を容れ、長藩家老井原の入京不可を決める。
◆11/29(1.8)【京】長州嘆願(14)春嶽、会津藩に井原の応接負担を提案。秋月、会津藩と長州藩は仇敵のような状況であると、これを断る
◆12/1(1.9)【京】長州嘆願(15)伏見の伊原、再び入京嘆願/後見職邸会議:慶喜・春嶽・宗城・久光、井原の趣意を聴取させるため、伏見に朝廷執次と所司代役人派遣することを決定(秋月、意見を述べる)
◆12/2(1.10)【江】鎖港使節(2)幕府、外国奉行支配組頭田辺太一らに横浜鎖港談判施設随行を命じる。/将軍再上洛(15)&板倉随従(2)政事総裁職松平直克、容保に老中板倉勝静の将軍随従困難を述べ、後見職慶喜の帰府・江戸城の留守を任せることの周旋を依頼
◆12/3(1.11)【京】中川宮浮説(1)孝明天皇、中川宮に浮説の真偽を問う/嘆願(16)朝廷、伏見に執奏家雑掌を送り、聴取させる旨を達す569
◆12/4(.1.12)【京】中川宮浮説(2)中川宮に浮説は気にせず扶助せよとの宸翰/中川宮・容保天誅の落書/【江】板倉随従(3)勝海舟、春嶽に書状。板倉上京周旋の困難を告げ、朝廷の沙汰を提案296
◆12/5(1.13)【京】後見職邸会議:参与会議へ(15)薩摩藩、賢諸侯を議奏にと提議。/中川宮浮説(3)在京諸侯連署の中川宮擁護の上書提出を決定
◆12/6(1.14)【京】将軍再上洛(16)中川宮ら、慶喜・春嶽・宗城・久光・容保らに将軍上洛督促の朝命・長州処分について諮問、慶喜、速やかな将軍上洛を促す上書/嘆願(17)長州家老井原、再度入京嘆願/朝廷、浪士処置を呈示/
◆12/7(1.15)【京】中川宮浮説(4)】慶喜・春嶽・容保・宗城・久光ら在京諸侯、朝廷に中川宮擁護の上書提出
◆12/8(1.16)【京】将軍再上洛(17)慶喜、春嶽に、新総裁職松平直克が将軍上洛時に幕権回復を企図していることを告げ、その善後策を相談/朝廷、浪士取り締まりを通達
◆12/9(1.17)【京】朝廷、慶喜に水戸藩士統率を委任/【江】将軍再上洛(18)勝、薩藩吉井幸輔に対し、大小目付が将軍上洛延期を主張し、幕議が紛糾している内情を報じる
◆12/10(1.18)【京】将軍再上洛(19)春嶽・容保・宗城・久光ら連署で老中に将軍上洛を促す/【江】幕府、老中板倉に将軍上洛用掛を命じ、老中有馬道純に先発上京を命じる
◆12/11(1.19)【京】長州嘆願(18)勧修寺家雑掌・所司代公用人、伏見の長州藩家老から奉勅始末・取調書を受け取る。また入京嘆願の請願を受ける。569/【江】鎖港使節(3)幕府、池田長発・河津祐邦・河田熙に横浜港永久閉鎖を談判するよう命ず
◆12/13(1.21)【京】長州嘆願(19)参内諸侯、井原帰国を内決/容保、施薬院から寺町淨花院へ/【江】将軍再上洛(20)老中有馬、海路上京の途へ
◆12/14(1.22)【京】長州嘆願(20)後見職邸で長州藩提出の書面を詮議、大久保利通列席。井原に帰国を命じることを決める。/長州家老井原、三度目の入京嘆願570
◆12/16(1.24)【京】長州嘆願(21)朝廷、井原の入京嘆願を退け、帰国の沙汰/【肥後】士道忘却事件(4)肥後藩、横井小楠・都築四郎の士籍剥奪・禄召し上げ
◆12/17(1.25)【京】将軍再上洛(21)幕府、将軍家茂の12月27日海路発途を布達【横浜】外国奉行小笠原広業ら、米国代理公使と輸入品税率低減を協議
◆12/18(1.26)【京】将軍再上洛(22)中川宮・松平春嶽・伊達宗城、政事総裁職松平直克が上京の際は幕府の旧習への回復は非だと説得すること、島津久光叙任などを話し合う/近衛忠房と薩摩藩国父島津久光養女貞の婚姻/彦根藩主井伊直憲入京【横浜】勘定奉行兼外国奉行竹内保徳ら、仏国公使に輸入品税率軽減を協議
◆12/19(1.27)【伏見】嘆願(23)長州家老、四度目の入京嘆願/【京】後見職邸:慶喜・春嶽・宗城、伏見へ使者派遣・井原の口上聞き取りを評決/慶喜・容保、二条右大臣の諮問に対し、伏見に使者派遣すべきと答える/
◆12/20(1.28)【京】長州嘆願(24)朝廷、歓修寺経理を藤森神社に遣わし、井原の口上を聴取することを決定/【土】土佐藩士武市半兵太、獄中から妻らに書簡
◆12/21(1.29)【伏見】嘆願(25)勧修寺経理、藤森神社で井原の陳情を聴取/有栖川宮、井原に使者を遣わし、下坂して朝命を待つことを諭させる/【京】中川宮邸会議:慶喜・春嶽・宗城、慶喜らの朝廷参与、久光の叙任等を協議/
◆12/22(1.30)【京】参与会議へ(16)&将軍再上洛(23)春嶽、慶喜に幕習から脱した「創業」・政体の基本は衆議の上確定を確認・二条城の諸侯集会決定/
◆12/23(1.31)【京】朝廷、三条実美ら帰京主張の鷹司輔煕の関白罷免。二条斉敬、新関白に(慶応3年1月9日まで関白) 。徳大寺公純は右大臣、近衛忠房は内大臣。

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元治元年12月(1865年1月)
◆元治元年12/20(1865.1.17)伊東の同志大村安宅、横浜で切腹

慶応3年12月-慶応4年1月 (1868年1月)
◇慶応3年12/7(1868.1.1)天満屋事件
◆◇12/8(1.2)新選組近藤・土方、大阪の豪商に金策/長州藩主父子の官位復旧・七卿赦免
◆12/9(1.3)王政復古の号令(摂政関白・幕府・守護職等の廃止)
◇12/11(1.5)新選組、大阪豪商に3000両返済/長州藩入京、会津と一触即発
◆12/12(1.6)徳川慶喜、会津・桑名藩主を連れて京都退去/新選組、二条城警護へ
◆12/13(1.7)徳川慶喜、大坂城に入城薩摩藩の軟化・新選組、二条城警護で水戸藩と対立
◆◇12/14(1.8) 岩倉具視、慶喜の辞官問題に軟化/新選組、新遊撃隊御雇を拒否して下阪
◇12/14(1.9)新選組、監察を伏見に先発させる
◆12/16(1.10)岩倉具視、慶喜の辞官納地に関してさらに譲歩/新選組、伏見入り − 衛士残党の間者を殺害
◆◇12/17(1.11)岩倉、慶喜の上洛を懇請・新選組を疎み、町人が伏見脱出
◆◇12/18(1.12)永井尚志、慶喜上洛を促しに下坂/会・桑の帰国を促す沙汰が再度下る/慶喜のクーデター非難状が京都に届く/御陵衛士残党、近藤勇・沖田総司を襲撃
◇12/20(1.14)近藤勇・沖田総司、戦線を離脱して下阪
◆◇12/21(1.15)徳川慶喜、早期上洛を了承/薩・長・芸・土に伏見巡邏の朝命/新選組、薩摩兵らと衝突/大久保利通、会津藩と新選組の軍事行動を非難する
◇12/24(1.18)伏見新選組、土佐の後藤らと衝突
◆◇12/25(1.19)庄内藩兵、江戸の薩摩屋敷を焼き討ち/この頃、尾張藩、新選組の伏見撤退を要求
◆◇12/26(1.20)徳川慶喜に上京の朝命・新選組撤退が条件
◇12/29(1.23)新選組、薩摩藩に間者を放つ

◆慶応4年1/3(1.27)【京】鳥羽伏見の戦い勃発
◆◇1/4(1.28)【京】鳥羽伏見の戦い-旧幕軍さらに敗退/相楽総三ら薩摩藩江戸浪士、京都に到着。
◆◇1/5(1.29)【京】鳥羽伏見の戦い3-淀藩、旧幕軍の入城を断る/東海道鎮撫総督に橋本実梁(和宮の外戚)を任命/ 赤報隊(1)三樹三郎、綾小路前侍従・山科兵部と江州挙兵の実行について相談。
◆◇1/6(1.30)【坂】徳川慶喜、松平容保・定敬を連れて大坂城脱出/朝議、慶喜追討令を決定するが、容堂が猛反対。岩倉具視、容堂を難詰し、追討令を認めさせる。/赤報隊(2)三樹、西郷に相談して金・兵器の支援を受ける。綾小路派約20名、京を脱出。
◇1/7(1.31)【坂】新選組、大坂城に入る/【京】慶喜追討令/岩倉具視、諸藩に明日の請書提出を迫る/赤報隊(3)綾小路派に相楽総三ら薩摩藩江戸浪士達(相楽派)、侍従滋野井公寿ら(滋野井派)が合流。総勢100名

覚書鳥羽伏見戦前、旧幕側に迷惑視されていた新選組−「この人々(新選組)、事に益なくして後に害あり」


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