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慶応3年12月8日(1868年1日2日)、朝廷で長州処分に関する会議が行われました。長州藩兵はすでに11月29日(旧暦)に西宮に上陸しており、長州兵の入京が政局のひとつの焦点になっていました。この日の会議で、朝廷は、長州藩主父子の朝敵赦免・官位を復旧、さらに禁門の政変で京都を追放されていた七卿の赦免、蟄居をさせられていた岩倉具視などの公卿の赦免を決定しました。これらの決定は翌日に計画される王政復古クーデターの前段階として必要なものでした。 「王政復古」について、この日、薩摩藩の西郷隆盛は岩倉具視宛てに「一混乱おきるかもしれませんが、200年あまりも大平の旧習に汚染されている人心なので、一度戦いをすることによって覚醒させることになるだろう。戦いを決して死中活を得るの御着眼が最も急務と思う」という書簡を送っています。 <ヒロ> 薩摩藩はクーデターについて、芸藩、そして公議政体派の土佐藩、越前藩、尾張藩、そして当初クーデター方式に難色を示してい公卿の同意をとりつけていました。 さて、大政奉還後、時代は王政復古に向かって進んでいたのに、武力倒幕派がなぜクーデターを必要としたのか。『幕末政治と倒幕運動』家近良樹氏は、「天皇を政治主体とする新しい国家を創設するにあたって人心の覚醒」が目的であり、「王政復古に難色を示す会津・桑名両藩を挑発し、両藩をたたきつぶすことで佐幕派勢力に壊滅的な打撃を与え、そのあと王政復古に向けての作業を一気に進行させようとしたため」だとしています。 実際、西郷・大久保はクーデターを起こしても幕府と交戦状態になることはなく、そういうことになるとしたら会津・桑名が相手だという認識を示しています(大久保・西郷の書簡)。 *** 同日、近藤・土方は大阪の豪商10軒から合計4000両を借用しました。(『金銀出入帳』、『鴻池善右門』ほか) <参考文献>『新選組史料集コンパクト版』(新人物往来社)、『鴻池善右門』・『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館)、『徳川慶喜』(中公新書)、『徳川慶喜』(実業之日本社) (2000/1/2、2001/1/2) |