慶応4年1月5日(1868年1月29日)、淀堤千両松で行われた戦闘で旧幕府軍は惨敗し、淀城下まで退却しましたが、淀藩は勅命といって入城を断りました。そこで、彼らは淀城下に火をかけて橋本宿に引き揚げたそうです(「浪士文久報国記事」)。 <ヒロ> 実は、前日、薩摩・長州藩は朝廷に働きかけて仁和寺宮嘉彰親王を征東将軍に任命し、これに大久保利通らが密かに製作していた「錦の御旗」を授けていました。旧幕府軍は「朝敵」となっていたのです。 淀藩は譜代で、藩主・稲葉正邦は老中でした。このとき、稲葉は江戸におり、家老田辺権太夫が城を預かっていました。鳥羽伏見で敗走した旧幕軍(会津藩兵や新選組が含まれている)は、当然淀城に入ろうとしましたが、家老は門を閉ざし、彼らを城内に入れませんでした。藤堂藩と並んで淀藩の「背信」が敗北を決定づけたといわれる所以です。それでも、戦後、幕軍数人が城内に入った責任を負い、家老と弟・治之助は切腹して新政府軍に詫びています。もし最終的に旧幕軍が勝っていれば、当然、藩主の許可を得ず、独断で城門を閉じたとして、家老は切腹していたことでしょう。 この日の闘いで新選組には多数の死者が出ました。14名とも(「横倉甚五郎日記」)、30余名(「新撰組始末記」)ともいいます。幹部では、井上源三郎、山崎丞の名前が戦死者として記録されています。戦死した井上源三郎の首は甥の井上泰助が斬って、首と刀を持って引き揚げようとしたが、大変重く、同行の隊士の注意もあって途中の寺の門前に埋めたそうです(「子孫が語る新選組」『別冊歴史読本特別増刊・新選組』)。山崎は即死したのではなく重傷を負っており、大阪八軒家で死亡した(「新選組往事実戦譚書」)とも、江戸へ敗走する船中で死亡した(「戊辰東軍戦死者霊名簿」)ともいいます。 関連:幕末史跡-鳥羽伏見・淀 |