【京】慶応3年1月1日(1867年2月5日)、島原で酒宴を楽しんでいた伊東甲子太郎・永倉新八・斎藤一は、隊規違反を犯して居続けることにしました。(『新撰組顛末記』)
この日、正月ということで島原は休みでしたが、伊東は永倉・斎藤・服部・服部・加納・内海・中西・佐野・三樹らを引き連れて島原にくりだし、あひるや酒を買って角屋に登楼したそうです。羽目をはずして大騒ぎをしているところ他の隊士20名ほども参加して大宴会になったとか。新選組には門限があり、役付きのものが門限を破ると切腹だというので、他の隊士は門限に遅れないよう帰ったそうです。しかし、伊東は一向に帰る様子がなく、「今夜は酔っ払ったので無粋な隊に帰りたくない。あとはわたしがひきうけるから今夜は飲み明かそう」といい、永倉・斎藤も酔っているので伊東に任せることにしてとうとうその夜は帰らないことにしたそうです。
<ヒロ>
有名な逸話ですが、永倉直筆の報国記事の方にはかかれていません。顛末記はもともと大正になってからの永倉の回想談を記者がおもしろおかしく書いたもので、史料性には疑問があるのですが・・・わたしは、この話が実話であったとしても慶応3年ではないのでは・・・と思っています。
実は、孝明天皇が崩御したのが前年の慶応2年12月25日。大喪が発せられた(崩御が公表された)のが同月29日。伊東らが島原にくりだしたとされる2日前のことでした。30日には諒闇(服喪)につき、年始・松飾・・餅などの新年の儀や鳴り物は禁止というお触れが町に出されていました。また新選組の上司である京都守護職松平容保は孝明天皇の信任篤く、会津藩では大変なショックを受けていたようです。
京都守護職お預かりである新選組の隊士が、天皇の喪が発せられ、年始や鳴り物が禁止された直後に島原で騒ぐというのは問題なのではないかと思います(隊規違反どころの騒ぎではないような)。
それに、天皇崩御直後というときに、勤王派の伊東が愛妓をはべらして肉料理と酒で大騒ぎするとはとても思えないのです。伊東ほど強烈な勤王意識はもっていなかったかもしれませんが、新選組の他の人々もこんな時期に大騒ぎするでしょうか。
また、島原にしても、年始・鳴り物停止等のお触れに違反して店をあけるでしょうか。昭和天皇の死後しばらくの自粛ムードもかなりのものでしたが、孝明天皇の死は時代を考えると昭和に比べ物にならないインパクトがあったのではないかと思うのですが。
さらに、孝明天皇の崩御について永倉が触れていないのも不自然な気がします。
わたしはこの事件、もしあったとしたら慶応2年のことではないかと思っています。
居続けは3日続きますので(笑)、この続きはのちほど・・・。
(2000/2/5、2001/2/5)
<<参考>>
『史談会速記録』、『新撰組顛末記』、『新選組戦場日記』、『孝明天皇』、『幕末維新京都町人日記』、『京都守護職始末』、『新選組日誌上』所収の関連史料、『新選組遺聞』
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