3月トップ  HPトップ



1865年3月19日(元治2年2月22日)
山南敬介、一説に脱走(疑問あり)

元治2年2月22日(1865年3月19日)、新選組副長山南敬介が脱走し、追っ手の沖田総司に捕らわれて帰営したという説があります。山南は、幕府の爪牙となった近藤・土方と対立。近藤も一方の副長である土方のみと事を決し、山南を疎んじる。山南は新規加入した伊東に敬服し、後日を期した黙契ができる。近藤がさらに猜疑の目をむけるのでついに隊を脱走。これを口実に処断できると喜んだ近藤は沖田を追手に向けたといいます。(『新撰組顛末記』)

***
同日、新選組40〜50名が鎖帷子に抜き身の槍をささげて息をきらせて出動しました。肥後藩留守居役が確かめたところ、新選組の小者が博打をしていたところを見廻組が差し押さえたところ大騒動になり、駆けつけたが、すでに4名ほどが捕縛された後で、公儀による捕縛ということで、新選組はいたしかたなく引き上げたそうです。留守居役は「余程のことにござ候」と記しています。

<ヒロ>
山南敬介の脱走は劇的なのでフィクションでは必ずといっていいほどとりあげられ、商業誌でも定説であるかのように扱われる傾向がありますが、脱走説をとるのは大正2年の永倉新八の談話を記者がまとめた読み物『新撰組顛末記』だけで史料的裏づけはほとんどないにひとしいのです。また、近藤・土方らが涙を飲んで脱走者の山南の捕縛を命じたというのも定説のようになっていますが、その『顛末記』では喜んで後を追わせたとなっています。涙の選択はまったくの小説的空想で、脱走説をとるならなぜその原因とされる近藤との深刻な対立を無視するのか、都合のいいとこどりはちょっと不思議です。(フィクションを否定しているのではありませんヨ)。

関連: 「覚書」「山南敬介(3):脱走説→切腹説に疑義 」(局中法度による切腹は疑問、脱走の「謎」について、伊東との黙契について)「山南敬介(4)新資料?「山南三郎・・・与隊長某議論自服」

なお、山南を追い掛ける沖田は小雪の散らつく中、馬を走らせるというのをドラマでよくみかけますが、旧暦2月22日は新暦ではお彼岸近く。桜の開花が間近という時期です。この日の壬生界隈の天気は「細雨降。四ツ前より晴。夜晴」(「高木在中日記」)でした。


山南敬介の事件簿元治2年」@衛士館

<参考>『新撰組顛末記』(新人物往来社)、『新選組戦場日記』(PHP)、『幕末維新京都町人日記』(清文堂)


他HP、論文、同人誌・商業誌等に参考にされる場合は
出典(HPタイトルとURL)を明らかにするなど著作権と論文作法をお守りくださいね。
なおやおい作品への利用は固くお断りします。

 3月トップ  HPトップ