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8 .山南敬介(3)脱走説に疑義
元治2年2月22日、新選組副長山南敬介【さんなん・けいすけ】が脱走し、追っ手の沖田総司【おきた・そうじ】に捕らわれて帰営したという説があります

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当時、山南敬介は、幕府の爪牙となった近藤・土方と対立していた。近藤も一方の副長である土方のみと事を決し、山南を疎んじる。山南は新規加入した伊東甲子太郎【いとう・かしたろう】に敬服し、後日を期した黙契ができる。近藤がさらに猜疑の目をむけるのでついに隊を脱走。これを口実に処断できると喜んだ近藤は沖田を追手に向けた。沖田は大津で山南を捕捉し、屯所に連れ帰った。近藤は隊規違反を理由とし、山南に切腹を申しつけた。永倉新八・伊東は「後はどうでもするから」と再脱走をすすめたが、山南は断り、立派に切腹した(永倉晩年の談話をもとにした読み物『新撰組顛末記』より要約)

■ 史料的根拠の薄い脱走説

山南敬介の脱走と局中法度による切腹は劇的なのでフィクションでは必ずといっていいほどとりあげられ、定説であるかのように扱われる傾向があります。しかし、実のところ、脱走説をとるのは事件から50年以上もたった大正2年の永倉新八の回想をもとに記者のまとめた読み物『新撰組顛末記』だけで、史料的裏づけはほとんどないに等しいのです。(ちなみに、近藤勇・土方歳三らが涙を飲んで脱走者の山南の捕縛を命じたというのも定説のようになっていますが、『顛末記』では喜んで後を追わせたとされています。涙の選択はまったくの小説的空想となります。『顛末記』の脱走説を採用するならその原因とされる近藤との深刻な対立、また近藤が喜んで後を追わせたという記述も併せて採用すべきだと思うのですが・・・あまり見かけないですね。不思議です)。

永倉が、明治初期にまとめた自筆の「浪士文久報国記事」の方では脱走/切腹どころか、山南の死自体を伏せています。同時代書簡も、他の元新選組隊士、新選組側(近藤・土方側)の史資料にも山南の脱走を伝えるものはありません。それどころか、大幹部の切腹という大事件について沈黙しており、切腹の理由はおろか切腹そのものも伏せられている場合がほとんどです。その沈黙は不自然といっていいほどです。また、明治27年脱稿の西本願寺寺侍西村兼文による「新撰組始末記」では西本願寺移転をめぐって土方と対立し、一書を残して諌止の自刃をしたとされています

脱走があったと強弁するにはほんとうに根拠が薄弱なのです。



表1:同時代史料にみる山南の死
(1) 元治2年3月1日:佐藤彦五郎宛土方歳三書簡。 山南の死後6日目に書かれた。佐藤と山南は旧知の仲である。土方の対立の原因とも伝わる屯所西本願寺移転の決定を知らせているが、山南の死には触れていない。
(2) 元治2年3月中旬ごろ(ヒロ推定):伊東甲子太郎の弔歌「山南氏の割腹を弔いて」 ★伊東は山南「割腹」を弔う和歌を4首も詠んでいる。
山南氏の割腹を弔て
春風に吹きさそわれて山桜散りてそ人におしまるるかな
吹風にしほまむよりは山桜ちりてあとなき花そいさまし
皇のまもりともなれ黒髪のみたれたる世に死ぬる身なれは
あめ風によしさらすともいとふへき常に涙の袖をしほれは

(「残し置く言の葉草」(鈴木家蔵)より)
これにより、山南の死が不名誉な理由でなかったことがわかる。(「弔歌から読む山南の切腹」もあわせてお読みください)
(3) 元治2年3月26日:小島鹿之助宛宛近藤勇書簡 山南の死には触れていない。 斎藤一・伊東甲子太郎と隊士募集のために東下する土方歳三に託したものといわれている。実は、この書簡は現存するものの中では、同年2月23日(1865年3月20日)の山南敬介の死後、一ヶ月たって近藤が初めて江戸に送った書簡だが、書簡は「去年から約束していた伊藤東涯、大石内蔵之助の書幅を永くお預けいたします」というシンプルなもの。山南の死後、一週間もたたないうちに書かれた土方の書簡(西本願寺の屯所移転決定を知らせるもの)同様、山南の死には触れていない。小島は山南とは親しくしていたのだが・・・。
(4) 元治2年3月27日:佐藤彦五郎宛沖田総司書簡 土方の東下に同行しないことを告げる手紙の末尾で「段々ご厚情くだされし山南兄先月26日死去つかまつり候ついでをもってちょっと申し上げ候」と報告(命日を間違っている)。死の理由(=切腹)については触れていない。
(5) 『小島日記』 公開されている資料を見る限り、山南の死は記されていない。

表2:関係者の回想録にみる山南の死
(1) 明治2年:『両雄志伝』(小島為之助著) 近藤・土方を顕彰することが目的の伝記。近藤が「故あって」山南を切腹させたと簡潔に記述。切腹の理由は記されていない。
(2) 明治2年:『島田魁日誌』 新選組創設来のメンバーで、函館まで土方に同行した隊士による回顧録。山南の死には触れていない。
(3) 明治初期:『文久浪士報国記事』 新選組創設来のメンバーで大幹部だった永倉新八直筆の回想録。山南の死には触れていない。

表3:その他
(1) 慶応4年:「鬼録」橘悟庵 建仁寺の僧侶の記した勤王の志士の記録。「隊長某と議論し自服した」とされている。(参照:新資料?「山南三郎・・・与隊長某議論自服」

■ 局中法度の「局を脱するを許さず」による切腹は疑問

また、『顛末記』では、局中法度に照らして切腹させられたという山南ですが、実は、山南の切腹事件当時、「局を脱するを許さず」の局中法度はなかったか、あるいは厳密に運用されていませんでした。(詳細⇒「覚書」「局中法度」

のちに御陵衛士として新選組を分離した阿部十郎は、新選組初期の入隊者で池田屋事件前後に横暴を極める近藤に反発して脱走したが、その後新選組に再加盟し、伍長にまでなっています。脱走後、浪人への詮議が厳しいので剣の師である大阪の谷万太郎のところに身を寄せていましたが、谷が老中板倉勝静と縁があったので、問題なく再加盟できたのだと阿部は回想しています。(阿部隆明(十郎)談『史談会速記録』)。この脱走者阿部の再加盟は、山南の死後のことです。

つまり、山南の死当時〜阿部の再加盟当時までには「局を脱するを許さず」の局中法度は存在しなかった・・・あるいは局中法度はよくいわれるような絶対的なものではなく、近藤・土方によって(権力保持のために?)恣意的に運用されていた・・・そのどちらかになります

山南の脱走が事実かどうかは置くとして、元治2年2月当時、「脱走 即切腹」ではなかったのです。脱走があったとしても必ずしも切腹にする必要はありませんでした。脱走が切腹の理由だとされたなら、それは『顛末記』に記されるように、山南の処刑の口実に使われたとみてよいのではないでしょうか。もし、脱走を口実に山南が切腹をさせられていたとしたら、山南の死後に咎めなく復帰し、咎めどころか伍長にまでなった脱走者阿部の件は、隊士にはどのように受け止められたのでしょう・・・。


関連:山南敬介の事件簿:元治2年「覚書:山南敬介(4)新資料?「山南三郎・・・与隊長某議論自服」

■ 脱走の謎について

『顛末記』から派生した脱走説を取ると、まず、(1)黙契が存在したのか・したとしたら何なのか、(2)黙契があるならなぜ脱走したのか、(3)なぜ京都から目と鼻の先の大津に留まっていたのか、(4)なぜ沖田にやすやすと見つかったのか、(5)なぜ抵抗せずに戻ったのか等の疑問が生じます。このため、研究家や小説家の間では、脱走の理由として「密会説」、「パフォーマンス説」、「山南粛正のための罠説」などが想像されています。なお、大津の下りも『顛末記』にしか触れられておらず、脱走説をとる研究家の中にも記者の創作であるとする見方があります。

よく脱走は謎とされます。もしかすると、脱走を実際にあったこととするから平仄があわなくなり謎がでてくるのではないでしょうか。

追記:伊東との黙契の存在

伊東は現在、一般に流布している悪役イメージとは違い、同時代の評判はごくよい人物です。そうであると、『顛末記』に記されているような山南の伊東への敬服も理解できる気もするし、伊東が残した弔歌からも両者の交流を感じることができます。しかし、だとすると、近藤・土方体制に不満をもっていた山南にとっては、伊東という同志を得てこれからというときだったはず。脱走する理由がかえってなくなるように思えます。

また、伊東は確かに山南を惜しむ弔歌を詠んでいますが、少なくとも生き残った御陵衛士メンバーは山南を同志としては認識していなかったようです。新選組が退京してから、生き残りの御陵衛士は、油小路事件で新選組に暗殺された伊東らの遺骸を新選組菩提寺である光縁寺から孝明天皇御陵泉涌寺塔中戒光寺に改葬しました。そのとき、伊東ら御陵衛士だけでなく、彼らが同志とみなす佐野七五三助ら(新選組離脱を願い出て会津藩で横死した)の遺骸も改葬されていますが、山南の遺骸はそのまま残されています。元衛士の遺談にも山南の名はいっさい出てきません。

これらの点から、山南は伊東(派)と何かことを起こそうとして脱走し、露見して近藤に切腹を命じられた「同志」というわけではないように思います。もしそうなら、近藤らが、山南死後に伊東らの新選組加盟を許したのも不自然です(わたしは伊東らの新選組正式加盟は山南の死後だと考えています。これは別の機会に)。もちろん、山南が造反をもちかけ、そこまでは考えていない伊東らに断られて(失望して)脱走したという可能性は残りますが・・・そこまでいくと、もはや推論というより小説の範疇だという気がします。
01/3/20初出、(03/2/11、リンク切れ等弱冠修正)


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