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元治元年7月22日(1864年8月23日) 

禁門の変の3日後
【京】一橋慶喜、薩摩藩家老小松帯刀の進言により、将軍上洛を促すため、大目付永井尚志を派遣
【京】京都町奉行、避難民の帰住及び長州残党の通報を促す制札を掲示

☆京都のお天気:曇炎暑益酷 (『嵯峨実愛日記』)
>禁門の変、後処理
【京】元治1年7月22日、京都町奉行は、避難民の帰住、潜伏する長州勢の通報を促す制札を三条大橋に掲示しました。(日付は「綱要」)

(てきとう訳)
この度、長州人が恐れ多くも自ら兵端を開き、禁闕を犯し、容易ならぬ騒動になった際、避難した者は安堵して帰住するように。(幕府側が)妄りに焼払うとの浮説を唱える輩もいるようだが、そのようなことは決してないので、銘々職業を励み、騒がぬこと。
一、元来、長州人は名を勤王に託し、種々手段を設け、人心を迷わせた故、信用していた者もあるだろうが、禁闕に発砲し、逆罪は明らかなので、(朝廷が)追討を仰せ付けられたのである。信用していた者も前非を悔い、改心すれば御宥免になるので、申し出るように。また、潜伏する落人等を見つけた者は早速申し出れば御褒美を下されよう。もし、潜伏が他者より明らかになった場合は、朝敵同罪となるだろう。

<ヒロ>
この制札は、逆に、当時、人々の間に、会津藩等による残党狩りの焼き討ちへの不安・不満や長州への同情があったことを物語っているような気がします。

参考:『七年史』二 (2018/4/21)

【坂】元治1年7月22日、幕府は、長州藩大坂留守居役北条瀬兵衛等に退去を命じました。
(『綱要』)

(関連:テーマ別元治1 ■池田屋事件、長州入京問題、禁門の変

その他の動き(「綱要」)
>横浜鎖港問題
【江】横浜鎖港談判使節池田長発(外国奉行)・河津祐邦(外国奉行)・河田煕(目付)等、帰国。幕府に上書して復命し、海外の形勢を説き、鎖港の不可を論じ、弁理公使の派遣、列国との締盟、海外留学生の派遣、欧米諸新聞社との通信交換、邦人の海外渡航免許の必要を詳説する。(関連:■横浜鎖港問題(2))(上書は『続再夢紀事』三p188-216)
>四国艦隊下関来襲
【長州】長州藩、四国艦隊の下関来襲が迫ることを知り、藩士井上馨(当時聞多)・杉孫七郎(徳輔)を使節として停戦交渉にあたらせることを決める。(関連:■四国艦隊下関砲撃


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