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元治元年7月23日(1864年8月24日) 

【京】長州藩追討の朝命
【京】京都守護職松平容保、江戸の老中に書を送り、
将軍の急遽上洛・指揮、閣内融和等を説く。
また慶喜の「尽力」も報じる。

☆京都のお天気:晴陰夕晴 (『嵯峨実愛日記』)
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■長州藩追討の朝命

【京】元治1年7月23日、武家伝奏野宮定功は、禁裏総督一橋慶喜に対し、速やかに長州藩主父子を追討せよとの朝命を伝達ました。

(朝命のてきとう訳)
松平大膳大夫(=長州藩主毛利慶親)には、兼て入京を禁じていたところ、陪臣福原越後を以て、名は嘆願に託し、その実強訴をし、国司信濃、益田右衛門介等を次々差し出した。寛大仁恕を以てこれを扱ったが、悔悟の意なく、言を左右に寄せ、容易ならぬ意趣を含み、自ら兵端を開き、禁闕に対して発砲した罪は軽からず。加えて、父子黒印の軍令状を国司信濃に授けた由。全軍謀は顕かであるため、防長に押し寄せ、速かに追討すること。
 7月23日

※禁門の変の折りに薩摩藩士が押収したもの。

<ヒロ>
一番問題視されたのは御所に向かって発砲したことでした。それに加えて敗走時に残された軍令状が見つかったことで、藩主父子公認の軍事行動だったことがばれてしまったのでした。

同日、幕府は、諸藩に朝命を伝え、長州藩上京に備えて、大坂・兵庫及び京都周辺の警備を固めさせました

(幕命のてきとう訳)
右(=朝命)につき、兵庫警衛及び大坂その他各藩警備へ、左の通り、前文同じ、只今より人数差し出し、軍備を厳重にし、大膳(=毛利慶親)以下上京する者があれば速やかに誅伐すること。
  7月23日

兵庫 大坂 洛外
兵庫:薩摩藩、明石藩
西宮:津藩、姫路藩、尼崎藩
大坂:紀州、彦根藩、土佐藩、讃岐藩
堺:紀州、岸和田藩
八幡:宮津藩、小浜藩
山崎:大垣藩、小田原藩

<ヒロ>
この警備固めは、慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮の役職に基づく指示になると思います。

参考:『忠義公史料』三p432、『維新史』四p121

同日、慶喜はこの件の報告のため、目付小出五郎右衛門を東下させました。

同日、守護職会津藩に対し、朝命とともに征長部署の記された「御書付御達」がありました

(朝命のてきとう訳=上と同じ)
松平大膳大夫(=長州藩主毛利慶親)には、兼て入京を禁じていたところ、陪臣福原越後を以て、名は嘆願に託し、その実強訴をし、国司信濃、益田右衛門介等を次々差し出した。寛大仁恕を以てこれを扱ったが、悔悟の意なく、言を左右に寄せ、容易ならぬ意趣を含み、自ら兵端を開き、禁闕に対して発砲した罪は軽からず。加えて、父子黒印の軍令状を国司信濃に授けた由。全軍謀は顕かであるため、防長に押し寄せ、速かに追討すること。
 7月23日

一橋中納言様 大坂まで御出張総括
松平春嶽  但し、山陽道から攻入

〇山陽道:芸州、福山、備中、備前、越前(総括)、津山
〇山陰道:因幡、浜田、津和野、雲州、閣老、板倉
〇九州余:(下関)小倉、筑前、(小郡)中津、(下関)久留米、柳川、熊本、肥前、(萩)薩摩
〇四国:(小郡)松山、宇和島、阿波、土佐


〇山崎:郡山御免、戸田(=大垣)、小田原(=小浜)
〇八幡:宮津、小浜
〇伏見豊後橋:間部(=鯖江?)
〇宇治橋:小出(=園部)振置
〇洛外廻り:市橋(=仁生寺)振隠
〇大坂:紀伊振置、彦根、高松(=讃岐)、土佐 (但し、高松御暇)
〇堺:紀州(但し、岸和田へ応援達響)
〇西ノ宮:津、酒井雅(=姫路)
〇兵庫:明石、薩摩

<ヒロ>
慶喜を総括(=征長総督)、松平春嶽を副将とするものです。誰が達したものか不明なのですが、「一橋中納言、松平春嶽」という書きぶりから、老中あたりかな・・・と思います。実は、翌24日、幕府は、中国・四国・九州の諸藩留守居役を呼出して、長州追討の朝命を伝達し、出兵準備を命じていますが、その達書には、「御書付」にあるような総督・副将の名前、具体的な部署(緑部分)は示されていません。まあ、いくらなんでも、江戸の許可なく、征長部署を布告するわけにはいかないですものね。この「御書付」は、在京幕府首脳内で内決された案のようなものといえるでしょうか?

「御書付」が、東下した使者によって江戸の幕府首脳に共有されたかどうかは不明ですが、容保は、それらしきことを老中に書き送っています。↓

同日、京都守護職松平容保は、書を在府老中に送って、禁門の変及び長州藩追討令を報じるとともに、将軍徳川家茂の急遽上洛による指揮幕閣内対立の融和等を説きましたまた、変に際しての慶喜の尽力に言及しました。

<ヒロ>
容保の書簡では、九門内外・大坂・兵庫・明石等の警護を固め、西国23藩にも命じて「押し申し付」けていたところ、「今日追討の御綸旨」が下ったとされていて、時系列が少し混乱しています。(どちらにせよ、在府の老中にとって、在京幕府首脳が、九門内外・大坂・兵庫・明石まではともかく、西国23藩にまで命じたときいては穏やかでない気がするのですが、容保はそうは思わなかったということですよね)。

なお、容保は、禁門の変の前には長州征討に慎重な慶喜に対する不信感・鬱積を募らせており、17日には慶喜を猛烈に批判する書を兄徳川慶勝に送っていましたが(◆7/17)、この日の老中宛書簡では「一橋殿始役々の尽力不一方事」と報じています。慶喜は、禁門の変勃発で対長州強硬論に転じ、また、親長州公卿による容保の御所追放論を封じ込んでいました。これを契機に、容保(会津藩)の慶喜への見方も改まり、両者の関係が改善しているようです。

参考:『七年史』二p287-290、『昔夢会筆記』p39-40(2018/4/14, 4/21)

■在府幕府の動き
【江】元治1年7月23日、幕府は禁門の変において長州藩が撃退され、天皇は安泰であることを布告しました。また、将軍徳川家茂は、前尾張藩主徳川慶勝に書を送り、上京を促しました。(綱要)

関連:■「開国開城」30. 第一次幕長戦争■テーマ別元治池田屋事件、長州入京問題、禁門の変 第一次幕長戦一橋慶喜の評判

その他の動き
【長州藩】
・四国艦隊来襲対策会議中、禁門の変の報が藩庁に届く『維新史』三p159)
・世子毛利定広、上関着(『維新史』三p158)
【天狗・諸生】
・幕府、更に常陸府中・宇都宮・土浦・高崎・笠間・下館・結城・壬生・足利・高瀬・宍戸・下妻の12藩に、常野の徒の追討を命じる(『綱要』五)
・水戸藩執政市川三左衛門・同元執政朝比奈弥太郎等、兵を率いて水戸城に入り、城下潜伏の反対派藩士浪士等を逮捕斬殺し、又諸口の警守を厳にして筑波山勢に備える。(『綱要』五)


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