水戸藩の勉強が進めば、各人物に小伝をつけようと思っています。
ア | 安島帯刀 | 安政の大獄に連座して切腹させられた斉昭派家老 |
会沢正志斎 | 『新論』を著わし、勅書返納論をとった幽谷門下の水戸学権威 | |
青山延寿 | 『大日本史』を編集した弘道館助教 | |
青山延光 | 弘道館教授頭取を兼ねた側用人 | |
市川三左衛門 | 諸生党の領袖となり、天狗党追討を指揮した保守門閥派家老。 | |
鵜飼幸吉 | 父吉左衛門に代って密勅を江戸藩邸に運び、安政の大獄で死罪鳩首された京都留守居助役 | |
鵜飼吉左衛門 | 慶喜擁立運動に奔走し、密勅を拝受。安政の大獄で死罪となった勝手掛 | |
梅沢孫太郎 | 一橋家用人を経て幕府目付となり、原市之進とともに慶喜を補佐 | |
大場一真斎 | 水戸藩本国寺党(京都駐留藩士)をたばねた激派家老 | |
カ | 金子孫二郎 | 斉昭擁立、藩政改革、薩水提携、長岡屯集に尽力し、大老井伊直弼襲撃(桜田門外の変を揮した激派の中心人物 |
木村権之衛門 | 薩水提携に奔走し、桜田門外の変・坂下門外の変(老中安藤襲撃)計画に参加 | |
サ | 斎藤監物 | 斉昭雪冤、水薩提携に尽力し、桜田門外の変で重傷死した神官出身藩士。東湖門下。 |
下野隼次郎 | 弘道館教授。老中安藤信正襲撃(「開国開城」「坂下門外の変」)計画に関った尊攘激派。文久2年12月に原市之進らと一橋慶喜に随従して上京。翌文久3年1月には尊攘激派の翠紅館会議にも参加(こちら) | |
住谷寅之介 | 藩士(100石)。斉昭雪冤運動に関わり、また原市之進らとともに老中安藤信正襲撃(「開国開城」「坂下門外の変」)計画に関った尊攘激派。このとき、長州藩士周布政之助や桂小五郎に書簡を送り、水長盟約に基づいて行動を起すよう求めてた(長州藩の事情で長州藩の参加は成らず)。潜伏中の清河に頼まれて松平春嶽への上書を江戸の間崎哲馬に渡す。文久3年の藩主上洛に先発して上京し、尊攘激派の翠紅館会議にも参加(こちら)。藩主東帰後も京都警衛指揮役として本国寺に留まる(在京水戸激派=本国寺党の中心人物の一人)。 | |
関鉄之介 | 水薩提携に尽力し、大老井伊を襲撃するも、薩藩の挙兵なく、潜伏中捕縛・処刑された激派。 | |
タ | 高橋多一郎 | 斉昭雪冤、水薩提携、大老井伊襲撃計画に奔走。大坂で薩摩挙兵を待つが捕吏に囲まれ自刃した激派の中心人物。 |
武田耕雲斎 | 斉昭の藩政改革を補佐し、天狗党にかつぎ出され、敦賀で斬首された激派家老。 | |
田丸稲之衛門 | 天狗党の筑波挙兵に擁され、敦賀で斬首された町奉行。 | |
茅根伊予之介 | 慶喜擁立運動に奔走し、安政の大獄で処刑された尊攘派。 | |
徳川慶篤 | 慶喜の長兄の水戸藩主。 | |
戸田忠敬 | 藤田東湖とともに藩政改革を推し進め、安政の大地震で死去した斉昭の側近。 | |
ナ | 野村常之介 | 桜田門外の変、坂下門外の変に関与し、戊辰戦争では保守門閥(佐幕)の市川派を追討。 |
ハ | 原市之進 | 老中安藤信正襲撃(「開国開城」「坂下門外の変」)計画に関った尊攘激派。文久2年に一橋慶喜に随従して上京。一橋家用人を経て目付となり慶喜を補佐するも、暗殺される。藤田東湖の従弟。 |
平山平介 | 老中安藤信正襲撃を謀議し、坂下門外で戦死した激派。 | |
藤田小四郎 | 天狗党の筑波挙兵を起こした藤田東湖の四男。 | |
藤田藤湖 | 水戸学と藩政改革を推し進め、安政の大地震で死去した斉昭の側近。 | |
藤田幽谷 | 水戸学を確立した彰考館総裁。藤田東湖の父。 | |
マ | 松平昭訓 | 兄慶篤東帰後、藩主目代として京都守衛に務めるが滞京中に病死した水戸藩公子。 |
松平頼徳 | 天狗党争乱時、藩内鎮撫に派遣されるも水戸城に籠る市川に攻撃され、市川支援の幕軍と戦火を交えてしまい、切腹に処せられた宍戸藩主。 | |
ヤ | 山口徳之進 | 藩士(200石)。坂下門外の変の謀議に関った激派。文久3年の藩主上洛に先発して上京し、尊攘激派の翠紅館会議にも参加(こちら)。吉成恒次郎とは従兄弟。(こちら) |
結城寅寿 | 藩政改革派と対立し、処刑された門閥派の領袖。 | |
吉成信貞 | 斉昭雪冤に奔走した郡奉行。幽谷門下。恒次郎の父。 | |
吉成恒次郎 | 斉昭雪冤、水戸藩反射炉建設、勅書返納反対(長岡屯集)に尽力。長岡勢解散後、攘夷を促しに薩摩藩邸に駆け込み、水戸藩邸に幽囚された。赦免後、藩主慶篤の上京に、激派29人と列外に随従。長州藩伊藤俊輔に連れられて入京。慶篤東帰後も滞京した(本国寺党)。 |